募る違和感〜「学び合い」でぶつかる壁〜

11、「学び合い」を学ぶ



どんなにあがいても自分が育てきれなかった部分を育てることができるかもしれない。
そんな直感を得た私は「学び合い」について学び始めました、
「学び合い」とはなんなのか?
西川教授がネットにアップしていた「学び合いの手引書」を読みあさりました。
「一人も見捨てたくない」という想いを教師がもつことの大切さ。
それをもとに「全員」ができるようになることの大切さを語ること。
そして、誰ができていて誰ができていないのかをきちんと可視化すること。
手引書を読み進めることで「学び合い」を進める上で大切なことが見えてきました。

私はまず、子どもたちの学びの状況を示す可視化黒板を作成しました。
課題ができた子は「できた」という所にネームを動かす。そしてまだできていない子がいたらその子がわかるように皆で支援するんのです。
全員が「できる」「わかった」という所にネームが動けば目標達成。
しかし一人でも「わからない」で授業を終えた子がいたら目標を達成できたことにはならないのです。基準はあくまで「全員ができること」
それが一人も見捨てないという気持ちの表れでした。

「今日の課題は○◯です。全員ができるようになってください。どうぞ。」
そんな風に言葉かけをして始まる授業。
導入もまとめもありません。
ただただ子どもたちが主体的に学ぶ時間を確保する。
その中で子どもたちは伸びていくのだ。
私の関心はいかに「教えるか?」ということから、「いかに学ばせるか?」ということへとうつっていったのです。
この授業の先に私の育てたい子どもたちの姿がある。
そう信じて突き進み続ける毎日でした。


12、「学び合い」の良さ
「学び合い」を初めて数週間が経ちました。その頃の私が感じ始めたこと。
それは「学び合い」のすばらしい部分がある。しかし、難しいなと感じる部分もあるということです。
「学び合い」の長所。私は大きく分けて3つあると考えました。
 一つ目は「主体性が育つ」ということです。
「学び合い」において子どもたちは常に自分で考え、自分自身で学びを深めていくことが求められます。課題が設定された瞬間から学びがスタート。常に主体的に学ぶことが必要になってくるのです。
これは自由に学べるから楽なように感じます。しかし実際は講義型の授業よりも厳しくつらいものです。常に主体的に学ぶことが要求されるのですから。
このような状況で毎日学ぶことで子どもたちの心には主体的に学ぶことの大切さが自然と刻まれます。子どもたちの主体性が育つ。これが一つ目の長所です。
 二つ目は「授業を通して子どもたちの関係を構築することができる」ということです。
「友達と仲良くすることは大切だね。」
道徳の授業でいくら熱く語っても、効果は薄いものです。
週一回の道徳の授業でいくらすばらしい話し合いをしたとしても、それは子どもたちの心に刻まれることはありません。大切なのは日々繰り返すこと。何度も何度も繰り返し伝える。それが子どもたちの心をグッと伸ばしていくのです。
「学び合い」の授業は常に子どもたち同士の関係に目を光らせます。「全員ができる」ということを求めているのに、「自分だけわかればいい」と考えている者はいないか?
「困っている人に自然に手を差し伸べられる人であるか?」など、普通の授業の中で常に子どもたちの心を育てるための言葉かけをすることができるのです。
「国語」や「算数」を学びながら「道徳」の授業を行っている。そんな感覚を覚えることがあります。普段の授業を通して友達との関係を構築していける。理想論に思えることを体現できるのです。
三つ目は「クラスの様子が可視化される」ということです。子どもたちは常に関わり合いながら学びを進めます。それを毎時間毎時間繰り返していくと、子ども同士の関係が手に取るようにわかるようになるのです。
「あの二人は最近接近しているな。」
「いつも仲の良いあの二人が離れているな。休み時間に何か合ったのかな?」
「あの二人は前まで距離があったのに、最近は一緒に学び始めているな。クラスの友人関係が変化してきているな」
などなど…。
子どもたちがダイレクトに繋がり合う場を保証するからこそ、子どもたちの関係がリアルに浮かび上がってくるのです。教師がクラスの状況をつかめているということはとても大切です。これを日々、毎時間のように感じ取ることができる。これが三つ目の長所でしょう。

13、学び合いの難しさ

今まで「いかに教えるか?」ということに夢中になっていた私。
「学び合い」という考え方が私に「いかに学ばせるか?」という新たな視点をくれたのです。
求めれば求めるほど伸びていく子どもたち。
今まで自分が伸ばしきれなかった子どもたちの心を伸ばすことができる。
そんな実感をもって授業に向き合うようになったのです。
しかし、「学び合い」を進めていくうちに、「う〜ん。これはどうすればよいのだろう?」と悩む部分が出てきたのです。
私を悩ませたのは大きく分けて2つあります。
 一つ目は「教師の存在意義」です。
子どもたちを信じて、任せる。これが「学び合い」のスタンスです。
「先生は教えない。」
「自分で考えることこそ大切。」
そんな態度を貫いてはいましたが、それが本当に正しいことなのか?常に揺れていました。
自分のやっていることが「信じて任せる」ということなのか?
それともただの「放ったらかし」なのか?
それがわからなくなってきたのです。
子どもたちは懸命に学びを進めていましたが、心の中はいつも揺れていたのです。

 二つ目は「子どもたちが本当に伸びているのか?」ということです。
「学び合い」の授業で大切になってくるのは誰ができていて誰ができていないのか?ということをしっかりと可視化することです。
前に述べたように、私はそれを可視化するためにネーム黒板を使っていました。
できたらネームを動かす。できた人はできていない人を助けにいく。
ネームが全部動いたら目標達成です。
しかし、この学習方法は非常に理解があいまいであることに気づき始めます。
「わかった」という方にネームを動かした子の話を聞いてみると、非常に理解が浅いものだったり、理解があいまいだったりすることが多くあるのです。
子どもたちは「わかったつもり」になっているだけなのではないか?
「全員ができるようになる」という課題設定だけではこの「わかったつもり」をあぶり出すことに限界があるのではないか?そんな風に感じ始めたのです。
この「学び合い」の授業で目指しているのは「子どもたちを伸ばすこと」でした。
しかし、子どもたちの中には「ネームを動かすこと」がゴールになっている子も見受けられたのです。
「わかったつもり」になっていることをいかに可視化するか?
そんなことで悩み始めたのです。

14、このままではいけない…

そんな風にモヤモヤを抱えながら授業に向き合う毎日。
しかし、そんな中私に「このままではだめだ!」と思わせる出来事が起こったのです。
それは、算数の授業のことでした。
いつもと同じように課題の発表から始まります。
「今日は○◯が全員説明できるようになってくださね。全員できるようになることが大切です。期待しています。では、どうぞ。」
子どもたちはすぐにエンジン全開。懸命に学び始めました。
「よし。よし。」
にこにこ笑いながら眺めている私。
「なるほど!」「そういうことか!」「もうできる!」
そんな声があちこちであがり、一人、また一人とネームカードが動いていきます。
授業終わりまであと10分くらいになったでしょうか?
「わからない」の表示の所に残ったのはわずか一名。K君でした。
残っているのはK君一人。
しかし、彼が「わかった」と言わなければ「全員がわかった」という目標達成にはなりません。
先生は常に「全員ができること」を大切にしている。
それを感じ取っている子どもたちは当然ながらK君を取り囲みます。
「これは◯○っていう意味でしょ?」
「いやいやそれよりこう考えた方がいいって!」
子どもたちはなんとかK君にわかってもらおうと必死で教え始めます。
しかし、周囲の子が教えれば教えるほど、K君の顔はこわばっていきます。
なかなか納得してくれないK君。教えている子どもたちの中にもイライラがつのり始めます。「だからぁ〜!」
強くなる語気。ますますK君は沈み込みます。
時間が長くなればなるほど、学びダレ始めます。教えている人にまかせて、K君の回りで遊び始める子も出始めました。それはある意味当然です。一人を取り囲めるのはせいぜい4人という所。周りにいられない子はやることがないのです。

大勢に取り囲まれて、理解を迫られる。
何分そんな状況が続いたでしょうか?
K君の目からポロッと涙が流れ落ちました。
そして、次の瞬間机につっぷっして泣き始めたのです。

全員が「わかった」と言っている状況で、ただ一人「わからない」と正直に言ったK君。
これはとても勇気がいることです。
しかし、そんな彼を待っていたのは「なぜわからないのだ?」という圧力でした。
もちろんこれは子どもたちが悪いのではありません。
この状況を生み出しているのは間違いなく「私」なのです。
「全員ができるようになれ」「全員をできるようにしろ」
この言葉が彼らの学びを縛り付けていたのです。

「わかったつもり」になってネームを動かしている子もいたはずです。
その子は「わかったつもり」のまま周りで遊んでいる。
しかし、本当に正直に「わからない」と言ったK君はつっぷして泣き続けている。
これが私の目指す授業なのでしょうか?
「学び合い」といいながら「全員」という言葉で縛り付け「学び合わせ」ていただけなのではないだろうか?
頭をガンとなぐられたような衝撃を受けた算数の時間となったのです。