「学び合い」との出会い 〜小学校での挑戦〜

6、小学校教師になろう!



私は悩んでいました。
どんなにきめ細やかに指示をしても、わかりやすく説明しても育てられない心。
積み重ねてきた自信がすべて崩れ落ちてしまうような感覚を覚えました。
私の心は折れかけていました。
そんなことを考えていく中で子どもたちがかわいいと思えなくなっていたのです。
その頃、妻は小学校2年生の担任をもっていました。
妻は帰宅すると毎日のように、うれしそうに自分のクラスの子の話をします。
それを聞くたびに自分の心は暗くなります。
「どうしてそんな風に子どもをかわいいと思えるの?」
「どうして自分はそう思えないの?」
そんな疑問が頭をかけめぐるのです。
この状況を打破するためには、自分から一歩踏み出さなければだめだと感じました。
じゃあ、どう踏み出す?
自分に欠けているものはなんなのだろう?
そんなことを考えているとき、小学校の先生方と話す機会がありました。
私は聞きました。
「小学校って楽しいですか?」
小学校の先生は答えます。
「すごく楽しいよ。せっかく校舎が同じなんだから、授業を見せ合いたいよね。今度ぜひおいでよ。」
その時、私ははっとしました。
確かに校舎はつながっています。しかし日々の生活が手一杯で小学校の授業を見にいくこと
などなかったのです。
小中9年間を見通したい。そんな思いを抱いて小中一貫校に異動を希望したはず。
しかし、以前より小学校のことが見えてきたかといえば答えは「NO」でした。
隣にいるだけでは何も見えてこない。
大切なのは同じ場に立ち、同じ子どもたちを目の前にして語ることなのです。
子どもたちの心を育てるための方法は何一つわからない。
でも、それを知るためのヒントが小学校には隠されているのではないか?
そんなことを思い始めたのです。
義務教育9年間を見通せるようになる。
それによって子どもたちの心を育てる方法が見えてくるのかもしれない。
なぜか強く感じたのです。
そこで、私は「小中交流事業」という制度に応募することに決めました。
「小中交流事業」とは小学校の先生と中学校の先生が一定期間交換をして研修をする制度です。この時私は教師になって7年目でした。7年間国語しか教えたことのない私が小学校へ異動する。これはとてつもない恐怖です。
「はたして自分に勤まるのか?」
そんな不安が湧き上がってきます。
しかし、今一歩を踏み出さないと何も得ることはできないはずだ。
腹を決めて一歩踏み出すことにしたのです。
今回の異動も、周りの方のご尽力により、希望通りとなりました。
こうして小中一貫校開校から3年間という貴重な体験をさせてもらったこの学校を後にすることとなったのです
異動先の小学校を耳にしたとき、私は驚きました。なんと以前妻が勤めていた学校だったのです。しかも担任する子は2年生の時に妻が担任した学年の子どもたちだというのです。
思いがけない偶然の重なり。
この学校での学びは深いものになる。
そんな予感を感じながら3年間過ごした学校を後にしました。

7、いざ小学校へ

小学校教師としての毎日が始まりました。
私の担任する子は小学5年生。クラスの半数近くが妻が担任した子どもたちです。
この子たちと初めて対面した時感じたこと、それは
「なんてかわいいんだ」
ということです。
この心境の変化は自分をも驚かせました。
なにせ私は「子どもがかわいいと思えない」という悩みを抱いて小学校へ異動したくらいなのですから。
私の言うことをじっと聴く子どもたち。楽しいと思ったことは本気で笑い、自分の気持ちを表現します。そんな素直な子どもたちに私の心は癒されました。
「この子たちを伸ばしてあげたい」
本気でそう思えました。
この子どもたちとの出会いは自分を変えてくれる。そんな気持ちがふくらんでいったのです。
しかも職員室の先生方にも恵まれました。特に私を支えてくださったのは学年を組む二人の先生です。
中学校に勤務している時は学級というより学年でまとまって行う仕事が多かったのですが、小学校は学級担任が行うことがたくさんあるのです。
会計、経営誌、出席簿、教材採択…。
右も左もわからない私に、学年の先生方は丁寧に優しく教えてくれました。
今考えると学年の業務はすべて二人の先生が引き受けてくださっていました。
私は日々の生活にいっぱいいっぱいで、そんなことに気づく余裕するなかったのですが。
たくさんの先生方の支えで、なんとか小学校教師としてのスタートを切ることができたのです。

8、小学校教師としての苦悩

「こんなのどうすればいいんだ!」
パニックになって思わず叫びぶ。
隣には苦笑いする妻の顔。
目の前には積み重ねられた教科書の山。
新学期が始まって一週間ぐらいたった頃のことです。
ついに私の恐れていたことが現実となりました。

中学校国語教師として勤めてきた7年間。
私は国語の授業についてしか学んできていませんでした。
中学校教師だった頃はそれで十分でした。
私の仕事は「国語を教える」ということ。
国語の授業についてのみ、深く深く考えていけばそれでよかったのです。
しかも、教材研究をしたらそれを数クラスで実践することができます。
しかし、小学校は違います。
同じ授業は二度とありません。
一度きりの授業が毎時間毎時間積み重なっていく。
国語、算数、理科、社会、そして体育、家庭科、図工、そして音楽まで。
毎日が一度きの真剣勝負なのです。
国語の教材研究だけに時間を費やすことができていた中学校とは明らかに違うのです。
もちろんすべて万全の準備をして授業に臨むことはできません。
どう考えても準備不足の授業が続きます。
しかし、どんなにがんばっても教材研究をできる時間が足りないのです。
そんなぐだぐだな私の授業も子どもたちは真剣に聞きます。
心の中はすまない気持ちでいっぱいになりました。
まるで、初任の時に戻ったような感覚に陥りました。
「あ〜。明日の算数はどういう風に進めよう。でも社会もあるぞ。体育もあるし…。」
「こんなのどうすればいいんだ!?」
なんとかなるだろう。
そんな甘い考えで踏み出した小学校教員としての生活。
始まって数週間で今まで積み上げてきた自信は崩れ落ちていったのです。

9、運命的な出会い

当初の「子どもたちを伸ばしたい」という想いはもはや消え失せ、目の前の授業にいっぱいいっぱいになる毎日。
自分の無力さを抱えながら過ぎていく毎日でした。
そんな私に救いの手を差し伸べてくれた先生がいました。
それが校内研修を取り仕切っているB先生でした。
当時A小学校が校内研究として進めていたもの。それは「学び合い」でした。
「学び合い」とは上越教育大学の西川純教授が提唱したものです。
「一人を見捨てない」という言葉をもとに全員が繋がり合いながら学ぶものです。
B先生は「学び合い」の考え方を自分なりに深く見つめ、自分の授業を常に省りみている方でした。
B先生は私と一緒に赴任したもう一人の先生を呼んで、A小学校の研究について説明してくださいました。
学校とはどういう場であるべきなのか?
子どもたちをどんな大人へと成長させていきたいのか?
学び合うことでどのような力を養うことができるのか?

「子どもは教師の手のひらで育てる」
こんな考えから抜け出しきれなかった私。

子どもたちが自分たちで学びを進めていくなんて理想論だと感じました。
一通り説明を聞いた後、私がB先生にした質問。
それは
「学び合いってどうやるんですか?」
B先生は静かに答え。
「学び合いは方法とか技術とかそういうものではないんだよ。」
言っていることがまったく理解できませんでした。
方法とか技術じゃない?
じゃあどうやって授業を進めるのよ?
頭の中に「?」が回ります。
そんな私にB先生は言いました。
「これは難しいよね。一番いいのは実際に授業を見ることだね。明日うちのクラスの授業を見に来ないかい?古田先生のクラスの子の何人かは去年学び合いを経験しているよ。だから自習にしても大丈夫だと思うよ。」

私が担任しているクラスの子どもたち。
実はクラスの3分の1の子どもたちの前担任はB先生だったのです。
B先生のクラスでなくとも、学校全体の研究テーマは「学び合い」。
どの子も「学び合い」の中で日々を過ごした経験のある子どもたちだったのです。
そんなことも知らなかった私、
そこまで言うならば…と次の日にB先生の授業を参観をすることにした私。
それが私自身を大きく変えることになるのです。

10、学び出す子どもたち

「次の時間は、先生はB先生のクラスの参観にいくことになりました。だからこの時間は教科書の○ページをやっておいてくださいね。」
なんの気なしに伝えた連絡事項。
すると子どもたちの目がきらきらと輝いたのです。
「先生!みんなで学び合いながらやってもいいですかっ?」
うれしそうに問う子どもたちを見て一瞬たじろいだ私。
「えっ!?あっうん。いいですよ。」
「やった〜!」
そんな歓声が湧き上がった次の瞬間。驚くべきことが起きました。
「ガタガタガタ!」
子どもたちが一斉に机を動かし始めたのです。
そして一瞬にして学びがスタート。夢中になって学び始めました。
ほんの数秒の出来事。私だけがあっけにとられてその場面を見つめていたのです。

「子どもたちが自分たちの手で学びを進めていく」
そんなことは理想論だ。勉強は教師が課してやらせるもの。
私の中にあった価値観が一瞬で崩れ落ちた瞬間でした。

「一体今のはなんだったんだろう…?」
少々興奮気味にB先生のクラスへと向かいました。
B先生の授業。教科は国語でした。
B先生は子どもたちを集めて問います。
その課題について子どもたちはひたすら意見を交換していきます。
その様子をじっと見つめるB先生。
再び子どもたちを集めて問います。
「さっきこういうことを話していた人がいたけど、これってどうなんだろう?」
子どもたちの表情が変わります。自分の考えを表現したくてたまらない表情です。
そこで再び学び合いがスタート。
子どもたちは懸命に考えを伝え合います。
「学び合いは方法や技術ではない」
なるほど。なんとなくその意味が見えた気がしました。

常に子どもたちを握りしめるだけでは、子どもたちを成長させることはできない。
そう悩んでいた私に「学び合い」は一筋の希望の光を示してくれたのです。
「学び合い」って何なんだろう?
私は本気で「学び合い」を学ぶ決心をし始めたのです。