人の生きる意味

「人はなんのために生きているのだろう」
こんなことをふと考える。

この問いを抱くと同時に湧き上がる問いは
「人の生死とは何か?」
という問いだ。

誰にでも必ず訪れる「死」。
誰もが必ず死ぬのになぜ人は生きるのだろう。
生きることの目的とはなんなのか?

そんなことを考え始めると、頭の中がぐるぐるとまわってとてつもなく大きなものに思考が支配されていく。
考えても答えは出ないこの問い。
それに対して現時点で考えていること。

生きることの最大のテーマ。
それは「幸せになる」ということ。
幸せは感じるもの。
自分の中で幸せだなと感じたこと一つ一つが積み重なって人生をつくっていく。

幸せとは不思議なもので、お金のように目の前に形となって常に現れるものではない。
どんな小さなことでも「幸せだな」と感じた瞬間に心の中にぽっと現れる。

物質的なものではないから、誰もが捉え方、感じ方によって心に生み出すことができる。

不遇であるいから不幸なのか?
それは違う。
不遇であるからこそ、ほんの小さな出来事に心があたたまることだってあるのだ。

不幸と幸福は表裏一体。
大切なのはその不幸というものの裏側にかくれている幸福をいかに見つめられるかということ。

水の中にもぐっている時間が長ければ長いほど、水面に顔を出し息を吸えた時のありがたみは大きい。
幸福も同じ。
不幸のどん底に沈んだ時間が長ければ長いほど、その出来事の意味を自分の中に見出せた時に感じられる幸福は大きいのだ。

そのように考えていくと、すべての出来事は自分を「幸せ」へと導く道標でしかないと気づき始める。

「大丈夫」
この言葉の意味は深い。
決して「不幸(と感じられる)出来事が起きないよ。だから大丈夫だよ」という意味ではない。

「その苦しみも、悲しみもすべてあなた自身の幸せへとつながっていくんだよ。必ずそうなる。だから大丈夫だよ。」

その人の心の中にある強さ。
に対して「大丈夫」という。
決して楽観的にかまえているからかけている言葉じゃない。

どれだけ人生において「幸せだな」と感じる瞬間を心の中に積み重ねていけるか。
それが人の生きる目的。

人にはそれぞれ生きるテーマがある。
大切なのは一人一人違うシナリオをいかに生きるか?
ということ。
「与える」幸せもあるだろう。
「いただく」幸せもあるだろう。
そのつながりの中で感じる幸せもあるだろう。

確信はないけれど、その積み重ねたものは死によって終わりを迎えるわけではない。そんな風に感じている。

生まれることが始まりで死ぬことが終わり。
そう考えたら「死」はとてつものなく恐ろしいものに感じる。
しかし、課題を終えた子どもたちが、また自分を成長させるために新たなゴールを設定して歩みだすように、人生にも新たなスタートがあるのではないか?

一度きりの人生だと考えるから、失敗をおそれる。
でも何度も何度も繰り返していけると思えば、失敗を恐れることななくなる。ゆっくり伸びていけばいい。

そんな風にどんとかまえていると「幸せ」の感度があがっていくような気がする。

子どもたちが日々の中で薄皮一枚の成長を積み重ねていくように、人生もまた「生」と「死」という始まりと終わりによって、「幸福」が積み重なっていくものなのではないか?

授業が「積分」で語られるように、人生もまた「積分」。
そんな感覚を持ち始めている。