委ねない

例えば山の中で道に迷ったとする。
メンバーの中に目的地へ至る道筋を知っている人がいるかいないか。
それは死活問題だろう。


今どちらの方向へ向かっているのか?
目的地に近づいているのか?
この先に待ち受けているものは何なのか?

それを理解し、道を指し示すことができる人は大切な存在。


それは日々の教室内でも同じこと。
教室内に目的地を指し示せる人が誰もいなかったら?
子どもたちは迷い、迷いの中で時間だけが過ぎていく。


教師は指導者。
道を指し示し、導く者でありたい。
道を指し示す行為を教師が放棄して、目的地に辿り着けるわけはない。
それが協同学習において、任せても決して委ねてはいけない理由。


「削ぎ落とす」
という信念のもとあらゆるものを削ぎ落としていこうと試みた時期があった。
道を指し導くことすら削ぎ落とした時、一気に教室の学びは崩れた。
なぜ崩れたか?今ならその理由がはっきりとわかる。


教師だけが握りしめた地図を子どもたちと共有する。
それが協同学習。
しかし、地図を手渡しても、それを的確に読み取れるとは限らない。
おかしいと感じたらその都度歩みを止め、意見を聴きながら修正をかけていく。
教室においてそんな指導者は必要不可欠なのだ。


確かに子ども個人よりも大人は有能である。
しかし、子ども集団となると話は別だ。
子ども集団には大人を超える可能性をもっている。

しかし、だからといってすべてを委ねられるほど集団は成熟しているわけではない。
教師に必要なのは、「子ども集団がいつかは教師という大人を超える」ということを信じること。

「信じる」とは責任を押し付けることではない。
今すぐにできることを「信じる」のではなく、最終的にできるようになるということを「信じる」こと。

大きな可能性を秘めていることを感じながらも、大人という大きな存在をしっかりと示していく。

考えれば考えるほど教師という存在は矛盾したものだ。
そんなことを最近強く感じる。