「放す」ために「握る」

「自主性」と「主体性」はどう違うのか?
同じように捉えられるこの言葉だが、この違いがしっかりと理解できることで様々なことがつながってくる。


この記事を読んでいろいろなことを考えさせられた。
http://u-note.me/note/47485918


「自主性」とはやるべきことを人に言われずにやること。
やるべきことはあらかじめ与えられている。しかし、それを誰かに言われる前に行えるかどうか?ということ。


「主体性」とは具体的にやるべきことが与えられていなくても、「目的」をもとに自分の行動を決定できること。
「自主性」はやるべきことをするか?しないか?によって図られる。
それに対して「主体性」はやるべきか?やるべきではないか?という判断も必要となってくる。


そのように考えていくと、「主体性」とは「自主性」の上位概念だということが見えてくる。
「自主性」を求める教師は「やるべきこと」をきちんと指し示す。その上でそれを自分から行うことを求める。


これが教育における「握る」という行為。
この行為なしに教育は成り立たない。
しかし「主体性」はこの握りしめた手を放す行為。
「これをやれ!」ではなく「どうすればいいかな?」と問う。


「握る」行為は悪。
「放す」行為が善。
一見そのように考えられがちだが、そうではない。
「握る」から「放す」ことができる。


「自主性」が育っていない子どもたちにいかに「主体性」を語ろうとその言葉は響きにくい。
行うべきことを自分から行うことの価値を感じていない子どもたちに、「どうすればいい?」と問いかけても意味はない。
思考停止に陥り「やらない」という選択肢に陥っていく。


「協同学習」を行うことでクラスが崩れていく。
この大きな原因はここにあるのではないか?
「自主性」と「主体性」の違いが見えてきたことでそのように感じるようになった。


「協同学習」によってクラスが崩れる原因は「自主性」が育っていない状況で「主体性」を求めることにあるのではないか?


数年前ある人に問われた言葉。
「今日はこれをやります。はいどうぞ。」で授業が成立するならば教師がいる意味はあるのか?
近所のおじさん、おばさんが「はいどうぞ。」というのと何が違うのか?


思考を揺さぶる問いだった。


教師が教室にいることの意味とは何か?
その価値を考えることなくすべてを委ねてしまう。そこにほころびが生じる。


教師にしかできないこと。
それは「学びなさい」と言うこと。


その意味に気づかされたのは、震災後の避難所学習プロジェクトだった。

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20130110/p1


学ぶことの目的を伝え、学ぶことの価値を語り、何度も何度も挑戦する場を与えること。
それが教師の役割。


このように考えていくと教師はそばにいる以上「主体性」は育てられないということが見えてくる。 「あなたたちにとってこれが大切なんだよ」 そう語ってそれに前向きに取り組ませていく、そこには「やらない」という選択はないのだから。


「自主→主体」
大なり小なりこの流れが大切なのだろう。
この流れを意識せずにいきなり主体性を求めるからノイズが大きくなる。


握る(自主性)べきか、放す(主体性)べきか?
この二項対立に意味がないのだ。
自主性が育っていけば、しだいにそれが主体性(のようなもの)へと高まっていく。
「放す」ために「握る」。
「握る」ことによって「放せる」のだ。


教師に「主体性」は育てられない。 教師の存在自体が矛盾した存在なのだ。 育てられるわけがないのにそれを強く望む。 このねじれが見えてきたことで少しずつ楽になってきた。 結局、自分にできることをただただやり続ける。やっぱりそれしかない。