「主体性」なんてない

「どうやったら子どもたちに主体性を育てられるのか?」
何年もずっと考えて続けてきた問い。
最近この問いへの答えが見えてきた。


結論から言う。それは
純粋な「主体性」なんて存在しないということ。
存在するとすればそれは「条件付きの主体性」だ。
これがストンと心に落ちてから握ることも、放すことも恐れなくなった。


「常に主体的に行動できる子どもたちを育てたい」
数年前まで本気でそう願っていた。
しかし「主体性」という言葉の意味を考えれば考えるほど深みにはまっていく。
人が常に「主体的」となれることなんてないのではないか。
自分自身を客観的に見ていて強くそう感じる。


「主体性」
それが発揮できるか否かは心の状況と周囲の環境に大きく左右される。
それが「条件付きの主体性」と述べた理由である。
しかし「条件付き」ということはその時点ですでに「主体性」とは呼べない。


自分に照らし合わせて考えてみればわかるだろう。
自分自身、伸び伸びと主体性を発揮して行動できる時とそうでない時、周囲の状況が大きく異なることを。


結局「主体性」なんて言葉はまやかし。
「学び合い」が主体性を大切にしているように見えながら、実は「究極の一斉授業」であるのと同じ。


握りしめた手を放して、放し続けて、任せ、任せ続けたその先に「主体性」が身に付くと信じていた。
しかし、その先に主体性なんて存在しないことに気付く。
どんなに主体性が身に付いたように見えても、それは結局教師の手のひらの上にのせられたものだ。


それが分かれば自分がやるべきことが見えてくる。
自分が教師としてできるのは「主体性を育てる」ことではなくて、「主体性(のようなもの)が発揮できる場を経験させる」こと。


「うちのクラスの子は主体的に行動することができない」
そんな会話をしばしば耳にする。 これは子どもたちにのみ原因があるわけではないのだ。
この言葉を放つ教師は自分を含めた集団がその状況をつくりだしていることから目をそらしている。


「うちのクラスの子どもたちは主体性がない。」
そうなのか?
主体性が「ある」「ない」ではなく、 主体性が「発揮できる」「発揮できない」なのではないか?


「うちのクラスの子は主体的に行動できない」
そう嘆く人教師は主体性というものが子どもたちの心に大きく影響されると考えている。
しかし、実はその教師やクラスの生み出す状況が子どもたちの主体性を縛り付けている。


子どもたちの主体性を縛り付けるもの。
それは「恐れ」だ。
失敗したらどうしよう。
検討外れのことをしていたらどうしよう。
周りの人にどう思われるだろう。
このような恐れが子どもたちの心を縛り付ける。


常に心に存在し続ける主体性なんてないということ。
主体性というのは子どもたちの心の状態だけではなく、その子をとりまく周りの状況に大きく影響されるものだから。
どんなに主体性を育てても、それが発揮できるか否かは周囲の状況によるのだ。


教師の役割は主体性を育てることではない。
主体性(のようなもの)が発揮できる環境を整えることだ。


これに気付いてからブレが少なくなった。
数年前は「主体性を養うためには子どもたちに任せなければ…」
そう考えて教師という存在を消そうと努めていた。
しかし、今は躊躇することなく斬り込める。躊躇することなく語れる。躊躇することなく握ることができる。


一斉か協同か。
握るか放すか。
そんな二項対立に意味がないことに気付く。
自分にできることは子どもたちのそばにいる間、いかに刻み続けるか、いかに示し続けるかだ。
最終的に自分が担任ではなくなれば、自分の存在は子どもたちの目の前から消える。



「主体性(のようなもの)」が発揮できる状況とは?
?自分の心に向かうべきゴール地点が思い描けているか?
?自分を受け止めてくれる仲間がいるか?
(失敗に価値を感じられる集団)
(「教えて」「助けて」と言い合える集団)
?どんな出来事にも価値を見出す肯定的な眼があるか?


だから目的を見据える価値を語る。
だから集団をチームへと成長させることの価値を語る。
だから、この世に「善悪」「敵味方」「勝ち負け」「幸不幸」が存在しないことを語る。
この3つがそろえば、主体性(のようなもの)が自ずと発揮されるから。


「あぁ。自分は主体性がないな…」
そんな風に思う悩む必要なんてない。
主体性なんて発揮できる場が整えば自ずと湧き上がってくる。
大切なのはそんな自分を嘆くことではない。
主体性を発揮できる場を自分自身でいかに整えていくかという感覚を知ることだろう。


自分自身の中に目指すべきゴール地点がある。
しかし、焦ることなく周囲の景色を楽しみながらそれに一歩一歩近づいていける。
そんな状況を生み出すことができれば「主体性」などと力を入れずとも歩み続けられるのだろう。