「発達段階」との折り合い

中学校教師を7年間勤めた後、小学校教師になり感じた違和感がある。
それはやたらに「発達段階」という言葉を耳にすること。
私の勉強不足だっただけなのかもしれないが、中学校教師だったころ、「発達段階」という言葉を多用したような記憶がない。


小学校現場に来て、やたらと耳にする「発達段階」という言葉。
「発達段階に応じた指導」
「発達段階的にまだ難しい」
この「発達段階」という言葉が昔から好きではなかった。


今までも何度か書いてきたこのテーマ。
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20130323
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120728
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120526



なぜならば、「発達段階」という言葉を使えばどんなことも丸くおさめることができるような印象があるからだ。
授業がうまくいかなければ「発達段階的に難しい課題」と言う。
授業がうまくいけば「発達段階にふさわしい課題」と言う。


また、「発達段階」というものが集団に存在するのか?という疑問も湧き上がる。
そもそも同じ学年の子どもであっても、得意不得意は様々。
感性も素質も十人十色。
そんな子どもたちに向かって
「◯年生はここまで」という「発達段階」を線引きできるものなのだろうか?


「発達段階」という言葉は本来もっと違う意味だったのだろう。
しかし、小学校現場に来て多用されているこの言葉の意味は、非常に消極的な印象を受ける。


「子どもたちを背伸びさせて、さらに上を目指させるのが教師の役割。
しかし、この 「発達段階的に難しい」 「発達段階に適していない」 という言葉は子どもたちに背伸びを求めるのではなく、あきらめの印象を感じさせる。

本来「発達段階」という言葉は集団ではなく、個人に用いられるものなのだろう。 「◯年生の発達段階」というように乱暴に線引きできるものではないのだ。
「発達段階」は線引きするための道具ではない。「乗り越える」ものなのだと思う。


というわけで、今まで「発達段階」という言葉に好ましい印象をもっていなかったわけだが、最近はこの言葉と折り合いがつけられるようになってきた。
それは、多くの人が語る「発達段階」と自分の思う「発達段階」が異なるものだということが自覚できるようになってきたからだ。


私は「発達段階」とは語った瞬間に始まるものだと考えている。
これの価値はね。
学校ってね。
友達ってね。…。
どんなに難しいことであっても語った瞬間が一歩目。


何度も何度も語ってそれを心に刻んでいく。
語るたびに「心の段階」は上がっていく。一人一人違うスピードで。


「語った瞬間が第一歩」
一人一人が今現在の自分の段階を乗り越えていく。
そんな場をつくりだすのが教師の役割なのだと思う。


「こんな話をしても発達段階的に理解できないよ。」
というあきらめではない。
分からないから語る。難しいから語る。


「発達段階」とは何かをしないための言い訳の言葉ではない。
集団を線引きするための道具でもない。


どちらが成長するだろうか?
「お前は発達段階的にこれはできないよ」
と言われるのと
「今のお前には難しいかもしれない。でもそれを乗り越える力をもっている。失敗してもいいから挑戦してごらん?」


「発達段階」という言葉を積極的に用いるか、消極的に用いるかで語る言葉は変わってくる。
「発達段階」という言葉を集団を線引きするために使うか、個々の多様性を認めるために用いるかでかける言葉は変わってくる。


結局は「教師の心」なんだ。
そんな(当たり前の)ことに気付いてから、戦う必要はなくなった。
自分は自分の考えでのらりくらりと進んでいく。