行事論「積み重ね」が成長を生む

坂内さんの記事。

http://d.hatena.ne.jp/tontan2/20141108

まったくその通りだなと感じる。
教育のインフレーション。
やればやるほど、「もっとすごいものを」「さらに上を」という風にハードルが上がっていく。
現在の教育の世界の息苦しさはここにあるといっても過言ではないだろう。
この息苦しさを解消していくにはどのようにすればよいのか?
そんなことを考えながら以下の文を書き進めていきたい。



新年度。
職員室には毎年新しいメンバーが入ってくる。
異動にはならなかった先生も、今までと違う学年担任になったり、違う校務分掌になったりして、前年度までとはがらっと違う役割になる。
誰が異動しようと、誰が異動してこようと、学校というのはある程度まわっていく。
それはなぜか?
これこそが「積み重ね」の強みなのだと思う。


例えば、自分が初めて3年生を担任するとする。
すると、当然ながらわからないことがたくさん出てくる。


「ここはどんな風に教えればいいのかな?」
「この単元、どんなことをやればいいのだろう?」
「ここの見学学習、どこにいくことになっているのかな?」
「そうじのわりあてはどこだろう?」…


大小様々の「?」が生まれる。
その時にどうするか?
そこには3つの方法があるだろう。


1、同じ学年の先生とどうするか話し合う
2、前年度の資料を調べてみる
3、前にその学年をもっていた先生に聞いてみる


このような方法があるからこそ、初めて行うことであってもなんとか乗り切っていける。
前年度まで積み重ねてきたものが見える人がいること。
前年度まで積み重ねてきたものがわかるものが残っていること。
それが私たちに見通しをくれる。
それによって創意工夫を生み出したり、新たなことを試みたりする余力が生まれるのだ。


もし仮に、2・3の方法が機能しなかったらどうなるか?
毎年全員が異動する。前年度何をやったのかまったく見通せない状況。
そして、それに対する資料が何一つ残っていない。
これで私たちは十分に力を発揮することができるだろうか?
1つのことを決めるのに膨大な時間がかかり、教材研究などを行う時間はなくなっていくだろう。


まとめると
「積み重なりが目に見えること」には大きな利点がある。
それは
?教師自身が見通しをもって取り組むことができるようになる。
?見通しをもって取り組めるため、創意工夫を生む余力が生まれる。
?経験した人と経験したことのない人の対話が生まれる
?ある程度の枠が決まっているため、0から決めていくよりも膨大な時間をとられることがない。



どんなメンバーになろうとも、学校というものが回っていけるのはこのようなシステムが確立されているからなのだと思う。
このような中で教師は人として成長していく。


私の子どもが通っている幼稚園。
毎年12月に「聖劇」の発表会がある。
「聖劇」とはキリストが生まれるまでの劇のことだ。
子どもが通っている幼稚園はモンテッソーリ教育を行っている。
クラスは縦割り。
毎日年少・年中・年長がまじりあって学んでいる。
もちろん聖劇も年少・年中・年長全員が参加。
それぞれに役割がある。


年少の子は全員羊の役。
年中の子は、劇中の歌の担当。
年長の子は、配役をもらい演技する。


娘は年少の頃言っていた。
「私ね、年長になったら天使の役がやりたいな。」
「でもね。○ちゃん(弟)が入ってくるから羊飼いになって、○ちゃんのお世話をするのもいいな〜。」
年少の頃から年長になった自分を想像しながら話すのである。


そして今年年長になった娘。
年少になった息子に今度は羊役のやり方を教えている。
「○くんはね。羊役だからこういうふうに歩くんだよ。」
自分がやってきたことだから、具体的にわかりやすくアドバイスをする。


子どもたちの通う幼稚園を見ていて感じること。
これが「積み重ねていく」ことの強み。


毎年劇の内容は変わらない。
しかし、変わらないからこそ、子どもたちは自分と照らし合わせながら劇を見る。
そして年上の子の演技を見ながら、未来の自分に想いをはせる。
逆もある。
年齢が上がれば、今まで自分が歩んできた道に想いをはせる。
そして、年下の子にの演技に過去の自分をうつしだしていく。


積み重ねていくからこそ、年上の子どもたちはイメージが形になっている。
だからこそ、見本になったり、アドバイスをしたりすることができる。
そして、年下の子は年上の子の頼もしい姿にあこがれを感じていく。
これが「つながりを生む行事」というものなのだろう。


先ほど述べた「積み重なりが目に見えること」の利点。
?教師自身が見通しをもって取り組むことができるようになる。
?見通しをもって取り組めるため、創意工夫を生む余力が生まれる。
?経験した人と経験したことのない人の対話が生まれる
?ある程度の枠が決まっているため、0から決めていくよりも膨大な時間をとられることがない。


これはこの幼稚園の聖劇の在り方にも重なっているのではないだろうか?
?経験したことのある子どもたちが見通しをもって取り組むことができる。
毎年共に創り上げている劇。見通しをもてるからこそイメージができる。
?何をやりたい。どんな風に演技したい。イメージできるからこそ、そういう創意工夫を生み出すことができる。
?年上(経験済み)と年下(経験なし)の子の対話が生まれる。みんなが同じものを創り上げてきたからこそ生まれる共通認識。そこに学び合いが生まれる。
?子どもたちがイメージできているからこそ、膨大な練習時間はいらない。余剰時間を子どもたちの成長のために使うことができる。


職員室の例。
私の子どもが通っている幼稚園の例。
二つの例をあげたが、この両者に共通する部分はやはり「積み重なり目に見えること」の強みだ。


それが目に見えることで、イメージができる。
毎年0からつくりあげるより、良質のものを無理なく生み出すことができるのだ。


論点を小学校に戻していきたい。
多くの学校でも行われている行事「学習発表会」。
膨大な時数を使ってつくられるこの行事。
立ち止まって考えたいこと。
それはそれを行ったことに見合う成長が子どもたちにあるか?
ということだ。
行事が子どもの成長ではなく、教師にがんばりによって成り立っていないか?
ということ。


坂内さんの記事には
「インフレーション=教師のがんばり(優秀さ)と思われているから、どんどん余剰なサービス体制だけがクローズアップされていきます。」
と書かれている。
そのとおり。
教師がいくらがんばってもそれが成長につながらなければ意味がないのだ。


行事を成り立たせるためには膨大な時数が必要になる。
しかし、時間を魔法で生み出すことはできない。
行事に時数をさかれるということは、その分学習の時間が減るということなのだ。
しかし、行事自体を減らすことはできません。
なぜならば、冒頭に述べたように「さらに」「もっと」という教育のインフレーション起きているから。


減らせないならば、生かせばいい。
そのように考えることにした。
しかし、今のままの状況で行事を生かすことはできない。
そこで大切になってくる考えが
「子どもたち自身が見通しをもてるようにすることによって成長を促す」
という方法。
具体的にいえば、各学年の台本の固定化。


毎年各学年が同じものをやっては子どもたちはつまらないだろう。
そんな反論がきそうだが、私はそうは感じない。
子どもたちはイメージできるからこそ、それをもとに自分の姿を考え、工夫を重ねていくことができるのだ。


毎年保護者が同じものを見るのではつまらないだろう。
そんな反論もきそうだ。しかし私はそうは感じない。
演技する人が変われば劇というものもガラッとかわる。
同じだからこそ保護者もイメージできる。


なぜ学習発表会において教師が中心にならざるをえないのか?
それはすべてのシナリオを教師が決め、教師にしか流れが見通せないからだ。
しかし、この流れを子どもたちがわかっていたならば、すべての根底がくつがえる。
やることが定まっていれば、4月からでも動き出せるのだ。
短い期間に圧力をかけながら集中してつくりあげる必要はなくなる。
ゆったりとのんびりとつくりあげていくことが可能になる。


もう一つ利点がある。それは6年間つながりが生まれること。
多くの行事は、発表会が終わったらおしまい。
かりに劇を行うならその劇をもう一度行うことは皆無だろう。
しかし、毎年同じものを行うなら話は変わる。
昨年自分がやった役を行う子がいるのだ。
その子に演技指導をすることもできるのだ。
やったら終わりではなく、努力したことがその後6年間生き続けるのだ。


子どもたちが主体的につくりあげる行事に憧れる。
しかし、子どもたちが主体的に何かを創り上げていくためには膨大な時間が必要になる。
ならば、教師がある程度創ったものの上に子どもを乗せる方が早い。
そんな考えの中で今のスタイルはつくりあげられてきたのだろう。


しかし、本当にそれは「主体的」といえるのか?
そんな疑問をもって数年。
子どもたちが本当に主体的に何かをしていくためには、やはり大きな「積み重ね」が必要なのだと気付く。


その積み重ねを生み出せるのは教師だけ。
だからこそ、教育活動の根本を問いかけることが大切なのだ。
当たり前のようにくりかえしてきたことに「本当にそれでいいの?」
と問いかけることなく、現在の息苦しさを解決することはできないだろう。