「つながり」が子どもを成長させる

「つながり」が人を育てていく。
そんなことをひしひしと感じる今日この頃。
どんなに優れた教育実践であっても単発では何の意味もない。
どんなにすばらしい行事をつくりあげても、それで養った力が日常にフィードバックされていかなければただの打ち上げ花火。


「つながり」が人を育てる。
そんなことをなんとなく感じ始めて数年が経った。
どんな「つながり」が人を成長させていくのか?
少しずつ自分の中で固まり始めている。


まず始めに大切になるつながり。
それは「人」と「人」とのつながりだ。
その「つながり」は大きく分けて4つの「つながり」に分けられる。


1、教師と子どものつながり
これはいわゆる「縦糸」といわれるものである。
何を目指し、何を大切にしながら毎日歩むのか?
教師自身が子どもたちに語ることで教室をグッとまとめていく。
強く、芯のあるこのつながりなしに教育は成り立たない。


2、子どもどうしのつながり
これはいわゆる「横糸」と呼ばれるものだ。
教師との縦糸をいくら強固に張り巡らせても、子どもたちは成長しない。大切なのはその縦糸の上に自分たちの想いをいかにのせていくのか?ということ。
そのためには子どもどうしが互いに心を開き、つながり合うことが大切。


この子どもどうしのつながりは大きく分けて二つのつながりに分けられる。
それは
(1)同学年のつながり
(2)異学年のつながり


合同体育。合同音楽。学年の出し物…。
方法として妥当かはここでは述べないがこういう活動が大切にされるのは同学年のつながりを生み出そうとする試みの一つだろう。


しかし、現在の日本の教育現場において(2)の異学年のつながりを生み出すのは容易ではない。
どんなに縦割り活動を行っても、単なるお祭りで終わってしまう。
日常的に異学年とつながりながら学ぶこと。
児童数・生徒数が増えれば増えるほどそれらは難しくなる。


その点においては、諸外国の教育は進んでいると感じる。
縦割りの学級。
異学年が日常的に共に学ぶのが当たり前。
そんな環境が整っている。
「ゆるくつなげる」
この考えをいかに日本の教育現場に根を下ろしていくか?
それは今後の課題だろう。



3、教師と保護者のつながり
子どもたちは学校のみで成長していくわけではない。
家庭で何を大切にし、何を語るか?
それも子どもたちを成長させていくためには欠かせないこと。
教師と保護者がつながっていくということは、学校における「縦糸」と家庭における「縦糸」を融合させていくこと。


このつながりは双方向でなければならない。
どちらかがどちらかを攻撃したりするような関係性は「つながり」とは言えない。
教師が奴隷になることでも、保護者がお客様になることでもない。
お互いに対等な関係で、子どもたちの成長のために自分たち(教師と保護者を含めた)が何ができるかを考えること。
教師と保護者がチームとなるということ。


教育アンケートと称して今の学校の状況を保護者がABCで評価するなどと言う活動があるが、あれはこのつながりを断ち切ってしまう。
評価という言葉は「評価するもの」と「評価されるもの」を二分していく。
保護者をお客様にしてしまう。


教師と保護者。どちらかがどちらかに依存することなく、関係性をつくっていくか?
これは今後の大きな課題であると感じる。


4、教師と教師のつながり
恥ずかしいことだが、このつながりの重要性に気付き始めたのは最近のこと。
教師と教師が同じ方向性を目指し進んでいくときの力は大きい。
教師どうしがいかに価値を共有し、同じ方向を見て進んでいけるか?


人とつながることの大切さを語る教師。
しかし、その教師の一日の大半が教室の中で「孤独」に過ごす。
同じものを見て、何を感じたかを話し合える大人は教室には存在しない。
「対話」が人を育てる。
その対話をいかに生み出していくか?
それが若年化が進む今の教育現場には必要な視点だろう。


さて、ここまで述べた4つのつながり。
これが子どもの成長に必要な
「人」と「人」とのつながりである。
しかし、この4つ「つながり」だけでは不十分。
さらに大切になってくるのが「教育活動の中におけるつながり」である。

以下「教育活動」の中におけるつながり について述べていきたい。


4、教科内におけるつながり
これはイメージしやすいつながりだろう。
教科の中においてどのようなつながりを生んでいくか?ということ。
国語なら国語の中で、算数なら算数の中で。
今まで学んできたことをいかに活用して課題を解決していくか?
同じ教科内ならつなげやすく、一貫性ももちやすい。



5、教科と教科のつながり
しかし、教科内ではなく、教科を超えてつながりをもたせていくとなると、なかなかむずかしくなってくる。
いつ、どの教科でも貫かれるものは何か?それを考え抜かないと必ずぶれる。
坂内さん、高橋さんと共にインタラクティブカリキュラムを生み出したのは日常的にこのつながりを確保していくため。
教科という枠を超えて、いかに教科をつなげていくか?融合していくか?
それを考えていくことが大切だろう。


6、日常と行事のつながり
4、5のつながりは授業におけるつながりだ。
しかしどんなに授業におけるつながりを保障しようとしてもそのつながりを分断するものがある。
それが「行事」にとられる大きな時数である。
どうしても「行事」は完成されたものを目指さなければならないという価値観が見え隠れする。
いつもやっていないことでも、「行事」だからといって懸命に子どもたちにやらせていく。日常と行事がつながっていないのだ。
だから教師も子どもも苦労するし、それにかける時数も膨大なものとなる。
何かを企画し、何かを創り上げていくことが日常的に「当たり前」のものとして 行われているならば、行事は単なる「通過点」となる。
しかし、年に数度しかない「ゴール地点」と考えるから行事から子どもたちの息づかいが消えていくのだ。
いかに日常と行事をつなげていくか?
いやむしろ融合させていくか?それを考えていきたいものだ。


7、行事と行事のつながり
6、で述べたように日常と行事がつながり始めると、行事と行事が融合していく。
行事が一つずつの独立したものではなく、連続性の中で語られるようになる。
行事の中身は違っても「創り上げる」という行為はどの行事であっても同じものだから。


8、行事の中における子どもどうしのつながり
 (1)同学年のつながり
 (2)異学年のつながり

最後に考えたいこと。
それはその行事が子どもどうしにつながりを生むものであるか?ということだ。
(1)のつながりを生むのは簡単。
しかし(2)の異学年のつながりを生む行事であるか?
それを考えることは大切。
異学年をつなげることについては今漠然と考えている案がある。
それについては別記事で後ほどまとめたい。

最後に
子どもたちを成長させていくためには「つながり」が大切。
しかし、一言に「つながり」と言ってもその意味は深いものだ。
大切なのは、その「つながり」どうしをまた「つなげて」いくこと。

今、教育現場はどんどん小さく小さく切り刻まれている。
個別対応。
あらゆる子どもたちに対応するための様々な人員配置。
この考えは決して悪いものではない。
しかし、つながりを生み出していけば解決できる問題もたくさんあるはずだ。