「行事」について

「子どものために」
この言葉が教育の世界をギュッと縛り付けている。
どんなことであっても考え方しだいで「子どものため」になる。


ポイントは「子どものために」のあとに何がつくのかということだろう。
例えば行事。
「子どものためにこんな行事をやりましょう。」という議論はよく聞かれる。
しかし「子どものためにこの行事をやめましょう。」という議論はあまり聞かれない。


子どものために「何をやろうか?」という足し算の発送が積み重なっていく。
やればやるほどシステマチックになっていくが、同時に息苦しくなっていく。
そしてそれがいつのまにか「当たり前」のものになっていき、子どもたちの息づかいが聞こえない行事へとなっていく。


大切なのは
子どものために「何をやめようか?」という引き算的発想。
これが今求められていること。
教育活動もスクラップアンドビルドであるべき。
今の状態はビルドアンドビルド。
これでは子どもたちが自由に動くことができない。


「行事」というものに熱が入りすぎてしまうのはなぜか?
それは1年に数回しかない「非日常」だから。
そしてその「非日常」には結果が求められる。
「大きな失敗」=「クラスの評価」
ダイレクトに繋がっていく。


じゃあどうする?
行事をことごとく廃止していけばよい?
そういうわけではない。

一番の問題は何か?
それは行事に「日常との連続性がない」ことだろう。
やったらそれで終わり。
次へのつながりが感じられない。
そこが一つにつながっていけば、行事にも大きな意味が生まれてくるだろう。


「子どものために」
という言葉は奥深いものだ。
これをやることが本当に「子どものために」なっているのか?
それをしっかり吟味していく必要がある。
「子どものため」
という理由で積み重なったものが、子どもたちの学習の時間を奪っていないか。
学校も保護者も一緒になって考えていかねばならない時がきているなと感じる。