「怒られたくない」から「しっかりとやる」?

「怒られたくないからしっかりとやる」

「悲しませたくないからしっかりとやる」
は結果としての行動は同じでもまったく違うものだ。

「怒られたくないからしっかりとやる」
これは相手(教師)への恐怖心による行動だ。

しかし、「悲しませたくないからしっかりとやる」は違う。
これは相手(教師)を大切にしたいという想いが込められた行動。

恐怖から生まれる行動は、恐怖を与える相手がいなくなったらすぐに失われる。
「怒られるからやらない」「怒られなければやっていい」
常に教師の表情を見て行動を決めている限り心の成長はない。

「悲しませたくないからしっかりとやる」
これは教師が常に何を求め、自分にどう成長してほしいのかを痛いほど感じ取っていなければ生まれない感情だ。
このように考えて行動を決められる子は「教師の怒り」というではなく、「在り方」に目を向けることができる

「相手の感情」ではなく「在り方」に目を向け、行動を決められる子は強い。
相手はいつかは消えるもの。しかし、自分自身とは一生の付き合いだ。

「教師が指差す方向」を目を凝らし必死に見ようとする子は強い。
「教師」という存在は消えても、指差したその方向は消えることがない。



「大人になるということ」
それは「その子の中の教師という存在が消えていくこと」なのだと思う。
教師という存在が消え、指差した方向だけが残っていく。
その時に子どもたちは「生徒」から「仲間」へと変わる。
同じ物を共に目指し歩んでいく。
私は子どもたちといつかそういう関係を築きたい。


「自分は通り過ぎる存在だ」
子どもたちに胸をはって言えるようになったのはいつからだろう。
それを言えるようになってからたくさんのことが見えるようになってきた気がする。

「怒り」をぶつけるのではなく、「悲しみ」を語る。
そんな自分でありたい。常々そう思っている。
自戒を込めて。