自由

「自由」を使いこなすには力が必要なんだ。
そんなことを毎日のように子どもたちに話している。


「自由であること」は一見すばらしく楽しいもののように見えるかもしれない。しかし、それを使いこなす力がない者にとっては身を滅ぼすものにもなる。


「自由」というものは「刃物」と似ている。
刃物は道具としては非常に優れたものだ。
自分の力で切れないものであっても、スパッと切ることができる。
しかし、便利なものであってもその使い方を誤ると、自分自身や相手を傷つけてしまう。


だから、大人は赤ん坊に「刃物」を預けるようなことはしない。
それを使いこなす力がない者に「刃物」を預けたらどうなるか。
傷つき、傷つけられることが容易に予想されるから。


「自由」もそれと同じ。
「自由」というものもうまく使いこなすことができれば、自分自身を大きく成長させることができるだろう。


しかし、同時に「自由」というものが身を滅ぼす場合もある。
何をすべきかわからない。
そういう人は「自由」の使い方がわからない。
その中で易きに流れていく。
また、「自由」と「我が儘」を勘違いする場合もある。
「何をするのも自由だろ」「俺の自由だ」
このような自分勝手な思考にとらわれ、次第に自分自身を滅ぼしていく。


「刃物」も「自由」も力がないと使いこなせない。
だからこそ、その力がない者にははじめから無条件でそれらを与えることはしない。


「子どもには力がある」
このような言葉に対して、自分は半分賛成。半分反対である。
確かに子どもたちには生まれながらに素晴らしい力をもっている。
しかし、その力をはじめから使いこなせるかどうかは別の話だ。


「子どもたちの力を信じる」
私自身、このような言葉をまっすぐに受け止めて、なんでも委ね、任せたことがあった。
そう文字通り子どもたちを「信じて」。
しかし、これは子どもたちを成長させると共に苦しめることにもなった。
「信じる」とは「やればきっとできるはずだ」と信じることなのではない。
「信じる」とは「いつかはそれを使いこなすことができるようになるはずだ」と信じることなのだ。


「自由」を使いこなすには力がいる。
自由には秘められた可能性がある。
しかし一方で大きな危険性もはらんでいる。
その両面を語ることなしに、「自由」をただ保障しても意味は薄い。


「刃物」を使いこなすには練習が必要。
それと同じで「自由」を使いこなすにも練習が必要なのだと感じる。
学校とはそれを学ぶ場所なんだろう。
だからこそ、勉強とは違う部分を何度も何度も語り続けている。