子どもの心に「ひ」をつける

以前私の尊敬する方にこんな質問をしたことがあります。
「教師として生きていくうえで大切な力があるとすればどんな力だと思いますか?」



普段からそういう問いに正面から向き合っているのでしょう。
その方はすぐに答えました。
「子どもの心にひをつける力だね。」と。



この答えは考えれば考えるほど奥深いものだと気づきます。
「子どもの心にひをつける」
と聞いた時、私が始めに思い浮かべたのは「火」という字でした。

「やりたい!」
「やってみたい!」
「わたしならできる!」
「やるぞ!」

そんな気持ちにさせることができる教師。
これは確かに魅力的であるし、大切だといえるでしょう。
しかし、自分の過去の失敗からこの言葉に違和感を感じていました。
おもしろそうな課題、楽しそうな活動、子どもをのせるテクニック。
このような表面的なものであっても「子どもたちの心に火をつける」が可能だからです。
確かにおもしろそうな課題を提示すると、子どもたちのやる気に火がつきます。
それは「授業」という「日常」の中に「おもしろそうな課題」という「非日常」をもってきたからです。
どんなにやる気に火をつけても、それが「非日常」の中ならば意味が薄い。
そんな風に感じていました。




「日常」に「非日常」をもちこむのではない。
「日常」を「非日常」にしていくのだ。



そんな風に考えています。
当たり前のように繰り返される「日常」の活動に価値や成長を見出し、
その「日常」を「非日常」にしていく。
そんな実践を追い求めてきました。
それが、坂内さんと高橋さんと築き上げてきた「インタラクティブカリキュラ」の核でもあります。




「日常」に「非日常」をもちこむのではない。
そのような中でついた火は、やがて消えてします。
そんなことを考えていました。
だから、冒頭の方の「教師に必要な力は子どもの心にひをつける力」という答えに違和感を感じたのです。



しかし、その方と話しているうちに私の考えが甘かったことに気づかされます。
その方のいう「ひをつける」とは
「火」と「灯」の両方の意味合いが込められていたのです。



私のイメージですが
「火」とは大きく力強いイメージ。
「灯」とは大きくはないが、芯の強さを感じます。



「心に火をつける」
というと
「やるぞ〜!!」(メラメラッ!!)
という印象。

それに対して
「心に灯をつける」
というと、内に秘めた闘志というイメージが湧きます。
ジワジワと熱いものが心に流れ続けていくというイメージでしょうか。



「火」は強く燃え上がって、すぐに消えてしまう。
しかし、「灯」は強くはないが、じわじわと燃え続けていくという感じでしょうか?



たとえ子どもたちの心に「火をつける」ことができても「灯をつける」ことは難しいと感じます。





こんな風にも考えられます。
学級という集団の中にいる間は、モチベーションも保ちやすい。
だって、「あれを目指そう!」と常に語り続けてくれる教師がいて、
それに共に迎える仲間がいるのですから。
「学級」という集団が燃え盛る「火」のように突き進んでいくことができます。


しかし、その集団もいつかは終わりを迎えます。
クラスがバラバラになったり、進路が別だったり、仲間と離れ離れになる時がくるのです。
その時、クラスの「火」は消えてしまいます。
仲間と別な道を歩み、たとえ学級という「火」が消えてしまっても、「これを大切にしていこう!」と心にともし続けられる「灯」が心にあるか否か?
周りに誰もいなくても、自分の中で信じて抜ける。
そんなものが心にあったとしたら、それは「心に灯がついた」状態といえるのでしょう。


力のある教師はみな「火」から「灯」へと変えていく力があると感じます。
「子どもの心にひをつける」
これは今この瞬間から、未来まで貫く言葉と言えるでしょう。

あの時聞いた言葉をふと思い出して、そんなことを考えました
。自分という存在が消えてしまっても、燃え続ける何かを刻んでいける教師になりたいものです。