呪われた目的

「目的」をもつこと。
それが人を成長させていくために必要不可欠なことである。



以前からそう考えてきました。
しかし、最近その考え方にかすかな修正を加える必要があることを感じています。
これは私が大切にしている言葉「学び続ける」という言葉にも影響するものです。
自分の考えをまとめるために少し書いてみようと思います。


「目的」は必要か否か?
と問われれば、もちろん答えは「イエス」でしょう。
「目的」なき者が学び続けることはありません。
自分が行き着きたいとものを思い描くからこそ、人は学ぶのだと思います。


しかし、仮にこのように問われれば少し迷いが生じます。


「目的」のみで人は学び続けることができるか?
そう問われた時、自分自身、答えに窮することに気づきます。
「目的」は時に自分自身を縛り付ける「呪い」にもなるからです。


「目的はこうなることだ。だから歯を食いしばってでも耐えなければならない。」
「目的のためにはこうすべきだ。」

このように「〜しなければならない」「すべきだ」という思考のもとでは、「目的」は自らを縛りつける「呪い」にもなりうるのです。

人が学び続けるためには「楽しさ」が必要不可欠です。
どんなにためになることであっても、「楽しさ」が欠けていれば学びの足は止まってしまうものですから。

そのように考えていくと、呪われた「目的」のもとでは学び続けることの難しさを感じます。
これの考えが自分の「目的至上主義」への疑いへと繋がりました。


人が成長していくために目的は必要不可欠です。
しかし、その「目的」をいかに「呪われた目的」へと変化させずに歩むか。
この視点で考えることをせずに、「目的」という言葉を振りかざしたくはないな。
と考えるようになりました。




「こうなりたい」
「目的」と聴くとどうしても「未来」のことを思い浮かべてしまいがちです。

しかし、前回の記事にも書いたとおり「未来」は悩みがはびこる世界です。

「こうなりたい!」
「でもなれなかったらどうしよう」
「でもなりたいんだ!!」
「でもこれも足りないしな」
「でもなりたいんだ!!!」
「でも、もしこんなことがおきたら・・・」
という無限ループへとはまっていく可能性があるのです。

このような状態に陥った時、それが「目的」が「呪われた目的」へと変わりつつある時なのです。

「未来」に軸を置く目的のみを追い求めることは危険です。


そのように考えていくといかにして自分の思考を「いま・ここ」に置くかということが大切になってくると思います。
ここで大切になってくる言葉。それが「在り方」です。


「在り方」とは「未来」のことではありません。
まさに「いま・ここ」のことです。「現在」の「在」ですから。



「こうなりたい」と「こう在りたい」の往復。


これが呪いを解く鍵となります。

「こうなりたい」という「未来」のみに生きるのではなく。
「どう在りたい」という「現在」にも目を向ける。
今の自分を犠牲にして、すばらしい未来など手に入るはずがないのです。


前回の記事
「正しい」ことより「楽しい」ことを。
の考え方にも通じることだと思います。
「正しい」は未来・人に。
「楽しい」はいま・自分に重きをおいていると思うのです。


http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20130428





確かに「目的」は大切です。
しかし、人々を、自分自身を、苦しめ、縛り付ける「目的」に価値はないと思います。
ぼんやりと考えてきたことが形になり始めました。
これからももう少し考えていこうと思います。