声を荒げて叱る

「許せないことをした時、子どもを怒鳴ってしまった・・・」
そのように思い悩む方がいます。



確かに怒鳴ることなく、冷静に語り、こどもたちに価値を刻むことができれば素晴らしいです。
しかし、いつもそんなことができるでしょうか?
いつでも、冷静に心にストンと落ちるような語りができるでしょうか?



私はできません。
わかっている方も多いと思いますが、私は非常に「感情的」です。
こどもたちがいけないことをした時、本気で叱ります。
現在1年生の担任ですが、声を荒げて怒ることは一日に何回もあります。
今日だって、大きな声をあげて3回ほど叱りました。



「声を荒げる」=「悪」
「冷静に語る」=「善」



しばしばこのように考えられがちですが、この考えだと苦しくなることに気づきました。
「声を荒げて叱る」ことも「冷静に語る」こともどちらも必要。
これらは両輪だ。
そのように考えると、気持ちが楽になります。
こどもたちの成長に繋がるなら、大きな声で叱ることも必要なのです。



大切なのはこどもたちが「なぜ先生は叱ったのか?」がわかるか否かなのです。
これをしっかりと伝えるということをきちんと意識できていれば、「声を荒げる」ことと「冷静に語る」ことが両輪であるという意味が見えてきます。



日々気をつけていること、それは「行為」の裏にかくされているものを子どもに考えさせるということです。



「ひらがなをここまで練習したらもってきなさい。」
授業でこのような指示を出した時、いつまでももってこない子がいます。



「行動が遅い」
という行為だけを見れば、それは叱られることなのでしょう。
しかし、「遅い」には2種類あります。



1つ目は、丁寧に、一生懸命やっていて遅くなった。
2つ目は、遊んでいて遅くなった。



明らかに遊んでいる子がいたら、まず問います。もちろん全体の前で。
「『遅い』には2種類ある。丁寧に一生懸命にやって遅くなった。遊んでいて遅くなった。同じ『遅い』でも、これは全然違うことだ。君の『遅い』はどっちだ?」



「遅い」という行為の裏にあるものに目を向けさせる。
このような経験を日々積み重ねていくしかないのです。
遊んでいて遅かったなら、もちろん大きな声をあげて叱ります。
もちろん自己肯定感を刻む叱り方で。



叱るについての過去記事
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20130116

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20111112

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20111207

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20111119



教室を走り回っている子がいます。
そんな時も同じです。



走り回っている子達を呼びとめ、問います。
「教室を走ることが悪いとわかってやっているのか?それともわからないでやっているのか?それによって先生は怒るかどうかは変わる。どっちだ?」



大半はわかってやっているのです。
「わからないなら教えればいいだけ。でも、君達はわかってやっている。わかってやっているのが一番わるい!!」
声を荒げてでも、ここは伝えます。



先生に怒られるからやめる。
これではこども達の心は育ちません。
大切なのは、自分のしている行為の裏にあるものを感じ、考え、修正していける力でしょう。
自分の行為が、よいものか悪いものか?それをはかるものさしを心に刻んでいくのです。
これは一朝一夕には身につきません。
薄皮を重ねるように、毎日、毎日。
それを身にまとったときの子どもたちは強いです。
そんな子を今までたくさん見てきました。
こども達の成長こそ、私が教師を続けられる原動力である。
そんなことを強く考えさせられる今日この頃です。



「子どもであっても、大人であっても、人を成長させるために必要なことは変わらないな」
今年1年生を受け持たせていただいて、そんなことを感じています。
何を語り、何を刻み、何を大切にするか?
それだけなのでしょう。
1年生だろうと6年生だろうと、中学生だろうと、大人だろうと。それは変わらない。
子どもから大人まで、すべての人達が貫いていける。
そんな言葉を日々かけ続けるだけ。



人は考えることで伸びていく。
価値観をおしつけるのではなく、考えさせ、自分で判断できる人を育てていきたいと思います。