良い授業とは?15分理論

以下に書くことは『学び合い』グループの中で学ぶ方にとって「?」と感じることもあるかと思う。
課題を確認して、子ども達にダイナミックに任せる。
しかし、それが周囲の方々になかなか理解されない。という人もいるだろう。
その状況を打破するために私は「学びの証拠」を残していくことが必要だと考えている。
子ども達の「学びの証拠」が残らない学びを押し通すことは難しい。
きちんと学びの証拠を残していくこと。それがあるからこそ、最終的にすべてを任せても揺るがない集団が形成されるのだと思う。
それは以前書いた通りである。

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120930




授業において大切なこと。
それは「子ども達を学びの主人公」にしていくこと。
それは「子どもの姿」を生き生きとしていくことに繋がる。


それと同時に考えていかねばならないこと。
それは、学びをいかに深めていくか?ということ。
生き生きと学んでいても、学びが深まっていなければ「生き生きと学んでいるように見えた」だけだろう。
ではいかに学びを深めていくか?
それを実現し、学びを可視化するための一つのものさしとは?
それを以下にまとめていきたい。


子ども達の学びが深まっているか?それを看取るためには子ども達の活動を15分ごとのパーツで看取っていくことが必要だろう。45分の中でいかに子ども達が全速力で学んでいたか?それ見るのである。



15分のパーツを3つ。
A:聴く(15分)
B:話す(15分)
C:書く(15分)



良い授業を創るためにはこの「A+B+C」の時間をいかに45分に近づけられるか?という挑戦が必要となってくる。



しかし、ここで気をつけたいのはBの「聴く」ということとCの「書く」ということである。



Bは「聞く」ではない。「聴く」である。
耳だけではなく、心まで傾けて「聴く」ことができたか?ということである。
なんとなく「聞いている」場合はこれを「聴いた」時間としてはカウントされない。



次に「書く」ということについて。
これは「子ども達が文字を書いている時間」である。
教師が「書こう」といっても、鉛筆がとまって戸惑っている場合はその時間は15分にはカウントされない。
15分間書く時間を設定しても、鉛筆が止まったら書いたとはみなされない。



さて、ここまで書いて、これがどこまでハードルの高いことかが予想できるかと思う。



自分の過去の授業を思い出す。


まずは「聴く」ということについて。
教師による導入。続いて教師の発問と挙手発表による繋ぎの時間。
始めは集中しているが子ども達の「きく」のレベルは時間と共に下がり始める。
はじめの5分程度は大半の子は「聴く」ことができている。
しかし、しだいに「聞く」子が増えていき、「聞いている?」へと変化していく。
「聴く」ことができていたのは何分だろうか?



次に話すということについて。
一斉授業の形式だと、子ども達の話す時間はぐっと減る。
子ども達が挙手して、それを教師が指名し、繋いでいく形式の授業。
子ども達が言葉を発する時間を数えてみるとそれは一目瞭然だ。
45分。つまり一時間の授業は2700秒ある。
その中で子ども達が立って言葉を発する時間は5秒程度から長くても60秒程度だろう。
挙手をしなければ、0秒ということもある。
グループ活動や意見交換の時間をとっても、黙りこくって話さない子もいるだろう。
そう考えると15分自分の考えを話す。というのはかなりハードルが高いことだということがわかるだろう。



最後に書くということについて。
「さあ、自分の考えを書いてみて」
と教師が言った後、子ども達が文字を書いている時間はトータルどれぐらいか?
書き終わって時間をもてあましてはいないか?
時間いっぱい書いている子はなかなかいないだろう。
15分間止まらず書く、ということもかなりハードルが高いことなのだ。



過去の自分の授業を思い出してABCのトータル時間を出してみる。
すると
A:聴いていた時間→10分(いっていたか?)
B:話していた時間→1分(いっていたか?)
C:書いていた時間→5分(いっていたか?)
トータル16分。
これをいかに45分に近づけていけるか?ということなのである。
これが45分に近づけば近づくほど、子ども達は「学びの主人公」になっているということなのだろう。
逆に言うと、45分から遠ざかるほど、子ども達は「思考停止」へと陥っていく。
そして学びは腐っていくのだ。
この危険性は以前も書いた通りだ。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120810




ABCの3つのパーツに分けて授業を考える。と書いたが。
厳密に言うとこれら違う。これら3つのパーツはすべて繋がっているのだ。
「15分書くのが止まらない」そんな状況を創りあげるためには自分自身の考えが形になっていないといけない。人に自分の考えを話せば話すほど自分の考えはクリアになっていく。
人の話を「聴く」ことも大切になってくる。自分と違う価値観の人間の話をどれだけ聴き、それに対する自分の思いを描けたか?
「書く」「話す」「聴く」という行為はかなり密接に繋がっているのだ。



「書く」「話す」「聴く」という時間が45分に近づいてきても満足してはいけない。
それは第一段階に過ぎない。
実はそれらの三者の根底に流れているものがある。
それが「考える」ということ。


いくら話していても、いくら聴いていても、いくら書けていても、頭の中がフル回転していなければ意味がない。
思考停止することなくいかに考え続けられるか?
45分にちかづけていくか?ということが第二段階となる。



話しながら、考える。考えながら、話す。
聴きながら、考える。考えながら、聴く。
書きながら、考える。考えながら、書く。
考えることは、すべての学びと同時に行うことができるのだ。
「考える」という行為をいかに磨いていくか?
それを導く力が教師には求められるのだろう。




まとめる。

よい授業とは?何か?
それは「子ども達が学びの主人公になっている授業である。」

では「学びの主人公になっている授業」とはどのような授業か?
「話す・聴く・書く」という行為が45分に近づいているか否かで看取ることができる。



これがしっかりと定まっていれば子ども達の姿のみで判断することはなくなる。
「学ぶ子どもの姿」と「子ども達の学びの深まり」が融合されているか?
図式するとかなりわかりやすくなるのだが…。
それは別の機会に。



「15分」「45分」
時間というぶれない「ものさし」で測ることでそれらは見えてくる。
授業を見せていただいたことで自分の核が定まった。
感謝だ。