「対話」と「自己」の往復

子ども達(人)を成長させるために必要なことは何か?
人が成長することができる場というのはどのような場なのか?
「成長」するために必要な要素。
それを常に考えている。



こんな発問をすればよい。
こんな課題を設定すればよい。
そのような「テクニック」ではなく、もっと奥にあるもの。
子ども達の成長を目にするたびにその答えが少しずつ見えてきた。



自分の授業では最後に必ずまとめをする時間をとる。
原稿用紙であれば400字以上。
A4のレポート用紙であれば一枚。
「書く」という行為によって子ども達の考えがどんどん磨かれていくことがわかる。
これはなぜなのか?



子ども達を成長させるために必要な「要素」。
それは「対話」と「自己」の往復。



「対話によっての学び」と「それによって得た自分自身の考えの整理」
それらをどれだけ往復することができたか?
それによって子ども達は成長していく。


気をつけなければならないのは「対話」という言葉。
「対話」でないと、子ども達の思考は深まっていかない。
子ども達が席に座り、教師がそれらの考えを吸い上げて進めていく、いわゆる「一斉授業」のスタイル。
このスタイルで素晴らしい授業をできる方は授業そのものが「対話」になっている。
子ども達の中に「思考停止に陥ったお客さん」をつくらない。
その覚悟が「対話」となって表れる。



しかし、集団との「対話」には限界がある。
全員の思考のでこぼこを一斉にならして、同じ切り口で「対話」をすることは難しい。
すごく盛り上がっており、教室全体で話し合っているように見える授業。
しかし、そこで誰が話をしているか抽出してみると、発言を全然せずに一時間を終える子ども達の姿がある。
盛り上がっているように見えても、全員を巻き込み、「対話」することは難しい。



集団との「対話」。それは努力し続けていけばいつかできるようになる。
確かにそうだろう。
しかし、「思考停止」する経験から子ども達の学びに対する意欲は低下していく。
4月にあったキラキラした学びへの意欲をいかに持続させられるか?
いや、そこからさらに高めていけるか?そこが教師の力量なのだろう。
そのように考えると、「いつかはできるようになりたい」などという甘い考えでいてはいけない。そのように感じる。



教師が集団をひっぱっていく授業だけでは「対話」を継続することは難しい。
そこで教師が考えなければならないのは、いかにして「対話」する場面を創りあげるか?ということであろう。



そこで必要になってくるのが「子ども同士の対話」の重要性である。
教師と対話するように子ども同士が思いっきり対話することができる場を創りあげていくことが大切になってくるのだ。



しかし、その「対話」はしばしば、見当はずれであったり、浅かったりする。
それをいかにして看取り、吸い上げ、深め、再び「対話」へ戻すか?それが教師に求められる力なのであろう。


しかし、いかに「対話」を繰り返しても、それだけでは足りない。
それを自分の中に落とし込んでいく時間が必要なのだ。
それが「自己へ立ち返る」ということ。



自己へ立ち返るためには、自分の思考を形に表していかねばならない。
それがすなわち「書く」ということ。
文字であれ、図であれ、「対話」によって得たものを形におとしこんでいく。



自己へ立ち返ることを通じて子ども達は「対話」で得たものを再認識する。
または、「対話」が十分なものでなく、「わかったつもり」であったことと感じることもあるだろう。



「対話」と「自己」の往復。
その繰り返しで子ども達は成長していく。
私に求められるのは、子ども達にいかにしてそれらを往復させるか?
それを考え続けること。
日々挑戦だ。