「自由」とは何か?それを学ぶために「自由」にはしない。

子ども達に「自由」を与えれば、子ども達は学ぶようになるか?
その答えは「NO」であろう。
自由の中でも学び続けることができる子ども達も一握りはいるかもしれない。
しかし大半はそうではない。
自由の中でも子ども達が積極的に学び続けるのであれば学校は必要なくなる。



協同スタイルを取り入れたことによって「子ども達が生き生きと学ぶようになった」という声が聞こえるが、それは当然のことである。
子ども達が今までもつことができなかった「自由」を手にしたのだから。表情が輝き生き生きとする(ように見える)のは当然である。



今まで死んだ目をして授業を受けていた子ども達が、生き生きと語りだす。
確かにそれを目にすれば子ども達を信じて任せることの大切さを感じることができるだろう。



しかし、その子ども達の生き生きとした姿は持続しない。
子ども達の中で与えられた「自由」が当たり前になってしまった時、その学びは崩れ出す。
子ども達に「自由」を使いこなせるだけの力が備わっていないと、「自由」は「自分勝手」へと変貌していく。



「自由」とは何か?
「自由」を使いこなすためにはどうあればよいか?
そもそも「学ぶ」とはどういうことか?


それを日々語っていかなければ子ども達は貴重な学びの時間を「自分勝手」に食いつぶしてしまうだけである。



「子ども達の力を信じて任せたい」
私は常にそう心の中でそう考えてきた。
しかし、子ども達に任せる経験を積めば積むほど、その難しさをひしひしと感じる。


「信じて任せる」
それは最終的に目的とすべき所であって、初めから子ども達にすべてを任せていくのは難しい。


なぜならば子ども達の中に「任せられた経験」というものが足りないことが多いから。
子ども達同士が繋がり、チームとしての目的意識が共有できている状態で与えられる「自由」は強い。
しかし、そのような状況が学級開き当初からできているとは考えがたい。



「自由」を使いこなす。それを学ぶためにはある程度フレームが必要となってくる。
フレームとは子ども達に「これ以上外へは行ってはいけない。」と縛る柵のようなものである。
初めはそのフレームの大きさは小さく狭い。
それを少しずつ広げていく。
広げたり、狭めたり。それを繰り返すことで子ども達は成長していく。



フレームが常に小さく。子ども達が身動きできない状態。それが「縛りつけの学び」
フレームを広げたままで、子ども達が自分勝手に動き回っている状態。それが「ほったらかしの学び」



子ども達が成長していようがいまいが、そのフレームは卒業と同時にすべて取り払われる。
そこから子ども達の「自由」への挑戦が始まるのだ。
今度は子ども達が自分自身にフレームをかけていかねばならないのだ。
それができる子は自らの目的に向かってどんどん伸びていく。
しかし、それができない子は…。



我々教師の役割。それは「自由を自分自身の力にしていける人を育てる」こと。
このフレームがなくなっても子ども達は学び続けるか?
それを常に心に問い続けたい。
ゴールはまだまだ先にある。