授業を見る「ものさし」

本日は開校記念日。
いい天気だ。素敵な一日になりそうだ。
昨日、ある学校の授業研究会に参加させていただいた。
そこで授業参観をしている時、自分の頭を常にかけめぐっていた疑問。
それは、
「良い授業とは何か?」
という疑問である。



一人一人、もっているバックグラウンドも違う。
一人一人、価値観も違う。
それらをならして、ある程度集約してみる「ものさし」がないと、もったいない。
そんな感想をもった。



「学び合い」や「子どもの姿」
これらはよく使われる言葉である。
しかし、これらの言葉は「ものさし」として使うには少し弱い。
解釈によって180度違うものへと変わってしまうのだ。



例えば「学び合い」という言葉。
いかなる状況であれば「学び合っている」と言えるのか?
子ども同士が直接関わる場面がなくても、教師が子ども達の間に入って学んでいれば「学び合い」と言えるのか?そもそも「学び合っている」のと「学んでいる」の違いは何なのか?



例えば「子どもの姿」という言葉。
中学校に勤めているころのことを思い出す。
すべてのクラスの国語を教えていた。
すごく前向きで、反応も良いクラスがあった。いつも笑顔であふれている。
仮にA組とする。
「子どもの姿」で言えばSランク。
一方隣のクラスは反応が薄くて、積極性が少し低く。
どよ〜ん。とした雰囲気が漂っている。
仮にB組とする。


「子どもの姿」で見れば結果はA組が素晴らしいのは一目瞭然だろう。
しかし、テストの結果になるとB組が断然いいのだ。
教えたことがしっかりと入っている。
A組の授業は楽しいのだが、指導したことが上滑りしているのだ。
私の教え方の未熟さもあったのだろう。
しかし、そこで自分が得た経験は
「姿だけで物事を見るのは危険だ」ということ。
もちろん「姿」も大切だ。しかし、そこに「学びの深まり」があるか否かを看取っていくのが教師の役割なのだと思う。
勘違いしてもらいたくないから、再度書く。
「学び合い」、「子どもの姿」という言葉が悪いと言っているわけではない。



「学び合う」、「子どもの姿」
素晴らしい言葉だと思うが、これらのあいまいさをいかにして明確にしていくか?
そんなことを研究授業を見ながら考えていた。



すると、突然ひらめいた。
いや、性格には「繋がった」というべきなのだろう。
自分の大切にしてきたパーツがすべて一本に繋がったのだ。
これらを忘れないうちにまとめておこうと思う。


続く。