「学校」が求める力と「社会」が求める力のズレ

ある調査を目にした。
企業が採用選考時にもっとも重視する能力とはという調査。
1位は「コミュニケーション能力」
2位は「主体性」
3位は「チャレンジ精神」だそうだ。


社会に出たら真っ先に求められるこれらの能力を学校教育が全力で育てようとしているか?
そこに疑問がある。
今日の学校教育において大切にされているものは、社会に求められているものとずれている。
これでは社会に出てから大きなギャップを抱えるのは当然であろう。



今日の学校教育において大切にされているもの。
それは「教師の教えやすさ」なのではないか?
教師が懸命に話したことをきちんとメモし、いかに自分のものとして吸収するか。良く言えば「穏やかな主体性」悪く言えば「飼殺しの主体性」である。



「穏やかな主体性」は心にゴールをもつ子ども達のみに成立する。
心にゴールをもつことがない子ども達は「教えやすさ」を重視した教育の中では思考停止に陥っていく。
そのような状況に陥っていく限り「コミュニケーション能力」「チャレンジ精神」が育つわけがない。



社会に出てから求められる能力(出口の能力)と学校教育(間の教育)の差をどのように埋めていくか?
教師がそれに日々心を砕くべきだろう。
小学生だろうと中学生だろうと、年齢は関係ない。
思考停止の状態で社会に放り投げてしまったら、適応できるか、適応できないかは確率の問題になってしまう。





「あなたの授業においていかにして『コミュニケーション能力』『主体性』『チャレンジ精神』を培おうとしているのですか?」





この質問に即答できるか?
教師は常に自問自答する必要があるのではないか?
どの教師も自信を持ってこれに答えることができるようになった時に教育は変わり始める。
多くの教師は、
「この授業でコミュニケーション能力を育てたい」
「この単元で主体性を培い…」
「この行事でチャレンジ精神を育成し…」
というだろう。
しかし、その程度のことでそれらが本当に育つのか?
大切なのは毎日の授業なのではないか?





教師は「型を破る」ことを極端に恐れる傾向がある。
それは教師自身が子どもの頃学校教育にマッチしてきた人間だから。
自身がマッチしてきたものを変えようとは思わない。
むしろ崩すべきではないとすら考えている。



この状況が教育界の変革を押し止めている。
教員に社会体験を…。などという発想はこのような所から生まれているのだろう。
しかしそのようなことは焼け石に水。効果は薄い。
もっとダイナミックに変革を推し進めていくことが子ども達の未来を明るくしていく。



「型破り」「破天荒」なやり方であっても切り捨てるべきではない。
大切なのは方法ではなくて「考え方」だろう。
先ほどの質問にいかに自分なりの答えを導き出しているか?
その方法の裏にある「考え方」に目を向けていける環境が大切。



教師自身が知らず知らずに「飼い殺しの主体性」の中に生きている。
子ども達の成長を真に願うなら、教師自身が真の主体性をもちたいものである。その背中が子ども達を成長させる。


確かに教育の世界には暗い話題が絶えない。
しかし、教育でしか世界は変えられない。
自分は常にそう思っている。