「ほめる」の先にあるもの

「ほめる」という行為の先に「認める」という行為がある。
「ほめる」ことも「認める」ことも、目的は子ども達を成長させるということ。



子ども達と出会ったばかりで信頼関係が構築できていない状況において「ほめる」という行為はとても重要な意味をもつ。
しかし、時間を重ねていくうちに「ほめる」という行為は色あせていく。



「ほめる」という行為はどのように色あせていくのか。
それには2種類ある。
第1に 心のこもらない表面上の行為になっていくこと。
第2に 「ほめる」が「こびる」に変化していくこと。



第一の変化。
「ほめる」という行為はほめる者の心を表す。
「ほめる」という行為に意味があるわけではない。
ほめ言葉は所詮手段に過ぎない。
大切なのはその言葉の裏に隠れている発する者の心。
それがほめ言葉が人を生かしていく真髄。


出会ったばかりの子ども達は素敵に見えるものである。
どんな行為もほめてあげたくなる。
しかし、その新鮮な気持ちは続かない。
良い意味でも、悪い意味でも人は「慣れ」ていくもの。


教師自身は気づかない「ほめる」行為の変化を子ども達は敏感に感じ取る。
表面上の形だけの「ほめ」なのか。
心から敬意を表しての「ほめ」なのか。
「ほめる」行為によって教師の思いが露呈してしまう。
「ほめる」が色あせていく。



第二の変化。
「ほめる」が「こびる」に変化していく。
子ども達が「ほめられるため」に行動し始めるようになってしまう。
「ほめられる」ためであっても、望ましい行為を続けるのは大切。
確かにそうかもしれない。


しかし、「ほめる」という行為の目的は「子ども達の心の成長」のはず。
「ほめられるためにやる」ことは本当に「心の成長」と呼ぶに値するか?
そう考えると、「ほめられるためにやる」ことは真の成長への通過点でしかないとわかる。
ほめられることが目的になるということは、常に行動の軸が他人にあるということ。
軸を他人から自分へとずらしていくことが教師の役割。


「ほめる」という行為は非常に大切なこと。
しかし、その行為の先に何があるのかわからずにやみくもにほめ続けていくと、知らず知らずに己の目的からはずれ始める。





決して「ほめる」という行為を「悪」と考えているわけではない。
先ほども述べたが「ほめる」という行為は非常に重要。
「ほめ言葉」は教師と子ども達との信頼関係を構築し、どのような行為が人を笑顔にする行為なのかを子ども達の心に刻むことができる。


しかし、子ども達の心の成長を目的とするならば、「ほめる」という行為の先にあるものに目を向けていく必要がある。
「ほめられるためにやる」という他人軸から「それをすることが自分らしさだからする」という自分軸へ。
そこまで教師が思いをはせているか?



軸を自分へとずらしていくためには



「認める」



という行為が必要になってくる。


「すごいね」「えらいね」ではなく「自分からできたね」「それが君らしさだね」「いいね」という言葉。
その言葉はしだいにそぎ落とされていき、グッドのサイン、うなずき、笑顔へと変化していく。


「ほめる」という行為が削ぎ落とされた時が真の意味での「信頼関係」が構築された時なのだろう。
アイコンタクト、心で繋がっている状況というのはこういうこと。



結局「ほめる」「認める」という行為ですら手段に過ぎない。
目的へ辿り着くための手段と考えることができた時、「ほめ言葉」「認める言葉」は輝き始める。


自分は「ほめる」「認める」ことを削ぎ落としていくことによって人を育てていきたい。
決意をこめて。