常に本気か?

学校は賢くなる場所。
賢くならない学び合いはただのおしゃべり。
「ふざけるな」とか、「真面目にやれ」なんて言葉がけはしない。



「それで賢くなれるのか?」


子ども達に問うのはただそれだけ。


子ども達は皆、心の奥で「誰かの役に立ちたい」と思っている。
しかし、その思いに気づく前に学びから逃走してしまう。
子ども達がその思いに気づく瞬間まで逃げることなく学び続けさせられるか?
それを常に自身に問う。


対話もない、交流もない。
子ども達同士は切り離されている。
その授業の目的は「子ども達の成長」か?
それとも「教師の心の安住」か?


なぜ子ども同士が学び合う必要があるのか?
なぜ子ども同士が繋がり合う必要があるのか?
学び合う、繋がり合うことは手段に過ぎない。
目的は一つ。「学び続ける子ども達を育てる」ため。


子ども達の成長のために常に全力であれ。
できていないことを「できていない」と伝えるのは教師の役割だ。
目を背けるな。


声を荒げて怒ることだって必要。
本気で子ども達の成長を思えば言葉に魂がこもる。
どんなクラスであっても必ず学びは甘くなる。
子ども達の甘さから目を逸らすな。
「これではだめだ!」と伝えろ。
ほったらかすことと見守ることは違う。


怒ってもいい。
怒鳴ってもいい。
しかし子ども達の可能性を信じることだけは忘れるな。


子ども達の成長のために叱る。
自分のイライラを解消するために怒鳴っても子ども達は成長しない。
軸は常に子ども達。


クラスの子ども達を本気で育てたい。
でも毎日楽しく過ごしたい。
一見矛盾するこの二つの考え方を融合させられるか?
怒りをひきずらない。
どんなに叱っても、伝えるべきことを伝えたならばそこで怒りは捨て去る。
怒りの後に本気で笑えるか?
大声で笑えるか?


本気で子ども達を育てることと、楽しみながら毎日を過ごすことは決して矛盾しない。