「知」と「徳」を同時に

なぜ子ども達が学び合う必要があるのか?


我々の目的は子ども達に学び合いをさせることではない。
子ども達を繋げることでもない。
それらは目的のための手段に過ぎないのだ。


もちろん目的はただ1つ。
「学び続けられる人間を育てる」こと。


子ども達は皆、心の奥で「誰かの役に立てる人になりたい」と願っている。
しかし、その願いを言語化する力が育っていない。
その願いは胸の中で形になることなく生き続けている。

来たる時が来れば誰もがその思いに気づくのだ。

しかし、多くの子ども達はその思いに気づく前に学びから逃走してしまう。
自分はだめだ。自分なんて…。
自己肯定感の低下は「恨み」へと変わっていく。
そして、心の中の願いは固く閉ざされる。

我々教師の役割は何か?
それはもちろん
子ども達が自分の願いに気づく瞬間まで逃げることなく学び続けさせられるか?


オーソドックスな「一斉授業」
「知」の伝達という面では非常に重要な役割を果たしている。
しかし、子どもを常に教師に注目させ、子ども達が互いに言葉を交わすことなく進めていく授業で子ども達の心は育つのだろうか?



一方最近新しく生まれてきた「協同学習スタイル」の授業
子ども達が自由に繋がり合うことで、学習意欲は向上する。コミュニケーション能力も向上するだろう。
しかし、「本当にできているのか?」「わかったつもりになっていないか?」があいまいになる。
子ども達が話し合えば「知」が育つわけはない。


どちらも一長一短。
「知」も「徳」もどちらも育てたい。
しかしどちらも育てられない。そのジレンマに多くの教師が悩んでいる。


多くの教師が悩み苦しむその命題に真っ向勝負をしかける。
簡単な話だ。「知」を育てながら「徳」も育てる。
頭でっかちにならない授業はないか?
それを日々追い求めている。


常に授業において語る。
なぜ学校にくるのか?なぜ友達と学ぶのか?よい学びとはなんなのか?
今の学びの何がだめなのか?結果を出すとはどういうことなのか?

授業において徳を学ぶのだ。
まさしく「知育」と「徳育」の同時進行。
国語をやりながら道徳をしている。
算数をやりながら道徳をしている。
そのような感じだ。


道徳の授業だけで「徳」が育つわけがない。


「友達は大切に…」
「友達には優しく…」
「友達には親切に…」


そんなこと子ども達はみなわかっているのだ。(頭の中では)
わかっているくせに平気でこんなことを言う。


「先生。好きな人と食べてもいいですか?」
「先生。好きな人と勉強してもいいですか?」


好きと嫌いは表裏一体。
この言葉は裏返せばこういうこと。


「先生。好きではない人とは食べなくもいいですか?」
「先生。好きではない人とは勉強しなくてもいいですか?」


「道徳の授業」と「日常」が子ども達の中では繋がっていないのだ。
道徳の授業で「徳」なんか育たない。
学んだ「徳」は日常の生活に落とし込めて初めて力を発揮するのだ。


我々教師の役割は日常においてその「徳」を子ども達の体に刻んでいくこと。
学校の日常とは何か?
それはもちろん「授業」であろう。

だから一斉授業を捨てた。
子ども同士を切り離し、操り人形にする自分の弱さを捨てた。


「知」も「徳」も本気で育てぬく覚悟はあるか?
それを常に問う。

自分の在り方の強さも弱さも見えている。
しかし、これしか道はないとも本気で思える。



「学び続ける人間」を育てるために自らが「学び続ける人間」であれ。