「全員が」は使わない

「全員ができる」「全員が説明できる」
数年前までこの言葉を使い続けていた。


しかし今は「全員が」という言葉はほとんど使わない。
この言葉は1年間語り続けるにはきつすぎる言葉である。


「全員ができる」に連戦連勝はない。
「国語」でも「算数」でも「理科」でも「社会」でも…。
すべての教科で「全員が」を達成できるわけがない。
しかも毎日。


これを達成するためには「全員が」の質を下げざるを得なくなる。
質の下がった「全員」を達成した所でクラスの成長はない。
では、質を下げないでごり押しすると子ども達はどうなるか?


上位の子ども達はわからない子に教えこもうとし始める。
下位の子ども達は教え込まれ、顔がくもり始める。
中位の子ども達は学びからあぶれ始める。


それが毎時間続く。それが毎日続く。
「全員が」を強く求めることで苦しむ子どももいるのだ。


「全員」大切。
クラス替え当初は何度も何度も語り続ける必要があるだろう。
しかし、それは1年間求め続けるには強すぎる言葉である。


「全員ができる」という言葉からは脱却しなければならない。
今すぐにできなくたっていい。大切なのはどんなに苦手であっても
「全員が学び続けられる」ことだろう。


クラスを「全員が」で縛る必要なんてない。
大切なのはそれぞれが目的を明確にして、突き進み続けること。
どんなに突き進んでいても「教えて」と言われたら全力で耳を傾けられること。


子ども達の学びに決してふたをしない。
突き進みたいならば突き進めばいい。
どこまで行きたいのか常に問い続ければいい。
「ゆるく繋がり」ながら「全員」を求めればいい。



上位は己を開きながらどこまでも突き進め。
それがクラスの原動力となる。



4月の末。
クラスの一人の女の子が声をかけてきた。
「先生。算数の上の教科書終わりました。」


「算数は今日から新しい単元に入ります。教科書の予習が終わっている人は?」
クラスの半数以上手をあげた。


これが学びのあるべき姿だ。
こういう子ども達をどんどん鍛えていく。
その後ろ姿がクラスを変えていく。
やりたいなら突き進めばいい。


「教えてあげるよ」なんていらない。
「全員が」のふたをはずす。
それが子ども達の学びを深いものにしていくのだ。