感じる危機感

最近『学び合い』という言葉が徐々に認知されつつある。
しかし『学び合い』の「理念」ではなく、「技術」や「方法」としてのみ広がっていくことに危機感を覚える。


『学び合い』はこうすればうまくいくというほどの単純なものではない。
考え方の奥深くまで切り込んでいかないと成立しない。


『学び合い』を成立させるために絶対に必要なこと。
それは「目的」を語ること。
「目的」とは自分が向かうべき一番奥にあるもの。
自分の目的が本当に目的と言えるのか。
自分の中で何度も何度も問いかけ続けることが必要。


なぜ学び合うことが必要なのか?
自分は教師として子ども達をどんな人間へと成長させたいのか?


それを語らずして『学び合い』をしても無意味。
その瞬間『学び合い』はただの「方法」へと落ちる。


教師が子ども達をどんな人間へと成長させたいのか?
それをもつことがスタートライン。
それをおろそかにすると、授業に迷いが生じてくる。
今自分のクラスが良い状態なのか悪い状態なのか?
それが見えなくなってくる。


『学び合い』は子ども達の本来もっている力を引き伸ばす。
子ども達は純粋。だからこそ教師の求めるものに向かってまっすぐと進み続ける。
しかし純粋であるがゆえに集団が間違えた方向に向かっていく時もある。
その時に教師は適切に声をかけられるか?


適切に声をかけるためには、教師自身がしっかりとクラスの状況を見とれないといけない。
「良い学び」と「悪い学び」の見極めができないと、迷いが生じる。
即座にストップをかけて修正できない。
迷っているうちに集団は腐り始める。


腐り始めたことに気づくことができれば手を打つこともできる。
しかしそれに気づかないとその腐りは急速に広まっていく。
気づいたときには「手遅れ」という状況も少なくない。
「全員ができる」ということを前面に押し出し続けていくと、このような危機的状況に陥っていくことがある。


「全員ができる」という課題のもと、「勉強が苦手な子」が「終わった子ども達」に囲まれる。
そしてしまいには「苦手な子」が苦しくなって泣き出す。
そんな状況が生まれた時、「この状況はおかしい」と感じ取れない教師が子ども達の力をまっすぐに伸ばすことができるだろうか?


『学び合い』という形にのみとらわれ、子ども達の気持ち感じ取れない状況が崩壊を引き起こす。
「苦手な子」が欲しているのは、課題が達成できるまで常にプレッシャーをかけられ続ける学びの場ではない。
たとえ苦手でも安心して学べる場。あきらめずに歩み続けられる場だろう。


「学び続けられる場」を創りあげるために教師が子ども達に何を語るか?
それが定まらずに『学び合い』を続けるのは危険だ。
目先の「できた」を求めることによって子ども達の目が死んでいく。
教師が見るべきなのは子どもの未来。
どこまで奥を見据えられるか?


バカ笑いが聞こえる。
耳をつんざくような声でしゃべる。
ニヤニヤ笑っている。
目が泳いでいる。
ペンで遊んでいる。
わからない子を馬鹿にする…。


そんな状況が一瞬でも見えた時、授業をストップさせられる強さはあるか?
そして、感情的にならず己のもつ目的を語りぬくことができるか?



「教師が楽ができる」などという認識で『学び合い』を行うのは愚の骨頂。
『学び合い』ほどきつい授業はない。
ある意味で究極の一斉授業だろう。


呼吸をするかのように自然に学ぶ子どもを育てる。
どんな状況でも自己肯定感を下げることなく、学び続けられる子どもを育てる。


『学び合い』は「理念」の共有。そこにはやり方などはない。
集まった人の数だけ『学び合い』の形はある。
しかし、最近形のみの広がりを感じる。


「全員が」「はいどうぞ」「可視化」
といった形のみに縛られ、誤った認識で広がり、つぶれていくことを私は心から怖れている。



『学び合い』を単なる「技術」に落としてはいけない。
その覚悟をもって人に語らねばならない。
『学び合い』はそんなに簡単なものではないのだ。