[教師の在り方]厳しさの中で信じ抜く

「はい、どうぞ。」

これは『学び合い』の象徴的な言葉。
この一言で子ども達は学び出す…と思っていた。


確かに子ども達は学び出す。
自分達で考え、自分達で決め、自分達で目標に向かっていく。


確かに学びだす。しかし…質のいい学びになっているかどうかは別問題。
「はい、どうぞ。」の後に安心して見て(聴いて)いられる雰囲気の時と、そうではない時がある。


知的に学んでいない。その雰囲気をありありと感じた時どうする?


『学び合い』における大切な考え方。
「子どもを信じる」


「信じる」…ということは?
「知的な学びじゃない。」
子ども達が自分達でそう気づき、修正できると信じて見守るべきか?


昨年度はそれで悩んだ。
迷いながら見守った結果どうなったか?
『学び合い』はルーズに。
今年度、「知的でないな?」そう感じたら即修正する。
子ども達を信じているからこそ。


「子どもを信じる」
とてつもなく深い言葉。
信じているからこそ、見守らなくてはならない。
信じているからこそ、斬らなければならない。


さらに上へ伸びると信じているからこそ問う。


「これでいいのかい?」
「これで本当に満足かい?」


まだまだ伸びる。学び続ける気持ちがある限り。