相手に寄り添う

相手が何を求めているのか?
それを常に気にすることが、人と接する時にとても大切だと思う。


しかし、相手が何を求めているのか自分が考えてもわからない時のほうが多い。
家族の気持ちだってわからないんだもの。


じゃあ「気にする」ってどうするのか?
それは簡単だ。
相手に聞けばいい。
何を相手が求めているのか、その答えは相手がもっている。


友達とトラブルを起こした子どもと話す時
「先生は君の力になりたいと思っているよ。
 先生は君に何をしてあげれば君の力になれるかな?」


教育相談で保護者の方と話す時
「話したい!聞きたい!という思いを満足させられる話し合いにしたいと思っています。
 どんなことを聞きたいのか教えていただけるとありがたいのですが。」


娘が泣きわめいている時
「泣いているとお父さんも悲しいな。お父さんに何をしてほしいの?教えて?」


基本的にどんなことでも相手が何を求めているのかを聞いてから行動するようにしている。
しかし、この言葉も気をつけて使わなければならない。
なにを気をつけるか。


それは「あなたの力になりたい」という気持ちを前面に押し出すこと。


人と話をする際に、上から目線で

「じゃあ、私は何をすればいいんですか?」
「じゃあどうしてほしいの?」

と話してしまったら、相手は
「この人本当に自分のこと考えてくれているのかな?」
と不安になってしまう。


私も過去に何回かこれで失敗している。
そのときの精神状態で、知らず知らずのうちに言葉にトゲがこもる時がある。
相手に寄り添いたくて聞いているのに、突き放しているように感じさせてしまう。
これでは意味が無い。





自分の『学び合い』が本当に『学び合い』といえるのか?
そんなことを悩んでいたこともあった。
でも、最近は悩んでいない。
『学び合い』の授業をつくることではなく、
子ども達が何を求めているのかを感じ取ることのほうが大切だと考えるようになったからだ。


自分がいかに正しいと思っていても、相手が求めなければ意味が無い。


「私はこれが大切だと思うけどなぁ。でもみんながそう思うならしかたないね。」
「こんな風に学習すればさらにいいと思うよ?でも決めるのは君達。どうする?」


『学び合い』を一時的にやめている人のブログをよく見かける。
でもそれは、目の前の子ども達の声に耳を傾けている何よりの証拠だと思う。
何が何でも『学び合い』を成立させようと教師が走ると、
子ども達が何を求めているのかが見えにくくなってしまう。


子ども達が一斉授業を望むのなら、
『学び合い』のよさを伝え続けながら一斉授業をすればいいと思う。
それは子ども達に寄り添っている証拠。恥でもなんでもない。


『学び合い』が成立していないと情報発信できないなんて間違っている。
子ども達の声に常に耳を傾けている人の情報こそかけがえのないものであると思う。


私自身、いつかは『学び合い』から離れざるをえない状況に陥ることもあるかもしれない。
でも、その時に、胸をはっていたい。


『学び合い』が成立させられないから自分はだめだ。
そんな考えはいらない。


相手が何を求めているか、それに耳を傾けているか?
『学び合い』のよさを伝え続けているか?

それらができていれば『学び合い』であろうと
一斉授業であろうと胸をはっていいと思う。


『学び合い』と一斉授業のはざまでゆれている人の話をもっと聞きたい。
そんなことをふと考えた。