「当たり前」だけど、これって胸をはれることじゃないのかな?

・教科書ももってこない。ロッカーにあっても出そうとしない。
・初めから授業に参加するつもりはない。机に突っ伏してやる気のなさをアピール。
・「わからない!」と奇声をあげ暴れる。
・なんでこんなことやらなきゃいけないんだ!?ときれる。
・どうせ俺なんて何やったってだめなんだ。


中学校に勤めていた時、そんな生徒がクラスにいました。
中学校は教科担任制なので、多くのクラスの様子が見えます。
クラスの中には必ず学びからあぶれている子どもがいます。


エネルギーに満ち溢れている子どもは、自分のSOSを教師集団、学校にぶつけ「自分がここにいるよ!」と発信し続けます。
内向的な子、発信することに疲れてしまった子どもは、自分を無能力化し、口をつぐみます。


小学校へ勤務するようになって、子ども達のパワーに驚かされました。
できる、できないを超えてみんなが挑戦し、伸びようとします。
なぜ??どうしてこんなに子ども達は一生懸命なの??


初めは発達段階の違いだと思い込みました。
しかし、それだけがすべてではないような気がしていました。
そして、ある時気づきました。


「放置される時間」「参加できない時間」「伸びている実感がもてない時間」
それの長さなのではないか?ということに。
これらの時間が長ければ長いほど、
子ども達の心はくさっていくのではないでしょうか。


「自分はダメだ。でも、どうしたらいいかわからない。」
学習が苦手な子ども達はそのような状況の中でも発信し続けているのです。
しかし、それは長くはもちません。いつかは疲れ始めます。


学びからこぼれている子どもを何とかしたい…
中学校に勤めていた時、そんな思いで授業を磨きました。
「語り」「課題」「組み立て」「活動」「リズム」…
あらゆるものを学びました。

その結果、授業はマシになりました。
しかし、授業で感動はできませんでした。
授業を楽しめませんでした。
何かが欠けているように感じるのです。



私達、教師に求められる最低ラインとはなんでしょうか?



それは
「全員を学びのスタートラインに立たせること」だと思います。



できる、できない、得意、不得意…
そんなものを超えてすべての子どもが学ぶ意志をもつ。
これがスタートラインに立つということ。


これは、普段あまり語られることはありません。
あまりにも「当たり前」のことだからです。
しかし、この「当たり前」が難しい。
いくら自分がマシな授業をしても全員をスタートラインに立たせることが(私は)できませんでした。


その「当たり前」を成立すらさせられていない。
それが私に欠けていた何かでした。
この「当たり前」を実現するのが最低ラインなのです。



『学び合い』のすばらしさは何か?
それは、その「当たり前」が実現できることだと思います。


「放置される時間」「参加できない時間」「伸びている実感がもてない時間」
この時間をそぎ落とし、子ども達が学び始めるのです。
だから、子どもの心は腐らない。
どんなに不得意でも、どんなに苦手でも学び続けられます。伸び続けられます。
そして、歩みを止めなければ、それは必ずいつか結果として表れます。


子ども達の「学ぶ心を呼び覚ます」
これが『学び合い』の力。


全員がスタートラインに立てて初めて、見えてくるものがあります。
いくら教材研究をしようとも、評価を明確にしようとも
「当たり前」ができない状態では意味がない。


寝ている子がいない。
それって、「当たり前」のことだけど、胸をはれるすごいことだと思いませんか??