やっぱり「在り方」一つ

石川さんと大野さんの講座に参加させてもらった。
講座の中で大野さんの学級のビデオの様子を拝見する。
子どもたちが学び合う場面。
すてきだったな。
勉強ができるってことは当たり前じゃない。
1時間1時間が大切な学びの時間なんだと子どもたちが感じているんだなぁというのが伝わってきた。


大野さんがしきりに言っていた言葉。
「制圧」ではなくて「納得」です。
でも、最後にちょっとつぶやいた。
「でも、やっぱり制圧かな?」


葛藤するこの言葉の中に含まれる、真理を見た気がした。
石川さんが「個人思考と集団思考を分ける必要がない」
とおっしゃったように「制圧」と「納得」も境界線などないのではないか?
そんな風に感じる。


「制圧」(という言葉が妥当ではないと思うけど)したから「納得」する子だっている。
「納得」したから結果「制圧」された子もいる。
そんな境界線なんてない。


大切なのは、大野さんが常に「制圧」ではなく「納得」というゴールを見つめ続けていることなんだと感じる。
やっぱりすべては「教師の在り方」
どんなにテクニックを学んでも実践をまねても、そこがなければ成り立たない。
そんなことを感じたな。

「ニセモノ」を直視する

アルジャーノンに花束を
めったにドラマを見ない自分だが、妻が隣で見ていたので、一緒に見ていた。
その中である人が涙ながらに語ったセリフ。
その言葉が胸をついた。

「そんな時、俺は所詮自分がニセモノだってことに気づく。ニセモノの俺じゃあお前たちに優しさの種をまいてやれねんだ」


この人の言葉に青年たちはじっと耳を傾けている。
この人は自分の中に渦巻くふがいなさ、弱さ、うそくそさすべてを認め、その上で自分を「ニセモノ」と捉えている。しかし、それを聴く青年たちの心にその言葉はまちがいなく届いている。

このワンシーンを見ていて、ふと思ったこと。
それは
「人は自分の弱さを認められた時にはじめて本物へと近づくことができる」のではないか?
ということ。


誰もが「本物」になろうともがく。
「まだまだ上だ」 「もっともっと先だ」 「こんなもんじゃない」と。
しかし、「本物」というものは所詮幻に過ぎない。
つかんだと思った瞬間にするりと自分の手から抜け落ちていく。


「本物」になろうとして、あがく、もがく、苦しんでいく。
どんなに偽っても、心では感じている。 自分のふがいなさを、弱さを、うそくささを。
ひたすら否定する。
「本物は違う。これは本物ではない」と。
しかし、ある日気づく。
「ああ。このふがいなさ、弱さ、うそくささから解放されない」


「あきらめ」というもの。
「明らかにみる」ことが出来た時、人は一歩先に進める。
自分は所詮「ニセモノ」。
もがきながら時を積み重ねた上で、自分の弱さを直視して放つ言葉には魂がこもる。

「本物」とは目指すものではない。
「本物」とは自分が気がつかないうちになっているものだ。
涙をかみしめながら自分が「ニセモノ」だと語った彼はまぎれもなく「本物」だった。
弱さを内包し、それでも前へ進もうとした時、人は本物へと近づいていく。

「どうなりたいか」ではなく「どうありたいか」
今現在の自分の積み重なりが、何かを形作っていく。
自分はまだ所詮「ニセモノ」 でも「ニセモノ」としてできることをやっていこうと思えた。
サナギが蝶へと自然に生まれ変わるように、本物も自然に生まれると信じて。

スタートをきった数=かしこさ

「スタートを切った数。それがかしこさにつながっていくんだよ」
昨日の算数の時間。子どもたちにそんなことを話した。
私たちの日常にはたくさんのスタートラインがある。
かしこい子ほど、スタートをきるのが上手だ。


Aくん。勉強は得意ではない。しかし、スタートをきるのがばつぐんにうまい。
昨日の算数は問題演習。
時間になり「よし。始めるよ。」と私が言った瞬間に鉛筆をもち、Aくんは学びをスタートさせる。
問題を解き終わっても、そこで立ち止まらない。
すぐに私のもとに歩み寄り、◯をつけてもらう。


問題はまちがっていた。
「あちゃ〜!」と頭をかきながらすぐさま席へ戻る。そしてまた再スタート。
彼は何度も何度も小さなスタートとゴールを積み重ねていく。
大切なのは「勉強ができる」「問題に正解する」ことなんかじゃない。
この小さなスタートを何度も積み重ねていことが大切なんだ。


「ゴールすることが大切」とは言わない。
「ゴール」を意識させることは大切。
しかし、そこにこだわるととたんに足取りは重くなる。
大切なのは「スタートラインにもう一度立てること」
「あっ。この学びではだめだな。もう一度スタートをきろう。」
と思えること。


子どもたちをじっとみる。するといろいろな子どもたちがいる。
スタートを何度も何度も積み重ねていける子。
スタートをした後、立ち止まりしゃがみこんでしまう子。
スタートをした後、逆方向に走り出してしまう子。
スタートはきるが、ゴールせずにちがうスタートをきる子。
スタートすらきろうとしない子。


どの子にも語りかける言葉は同じだ。
「スタートをきった数。それがかしこさだよ。」


私の授業は自由度が高い。
子どもたちが自分で考え、自分の言葉で学びをつくっていく場面がたくさんある。
だから「スタート」する感覚をつかむ。
自分がどれだけ「スタート」をきることができているかを常に客観視させていく。


スタートをきれない子には「スタートをきること」の大切さを語る。
一度スタートしたら思い切り認める。しゃがみこんだらまた語る。
その子の目が変わる。また学びへのスタートをきる。
「どうして集中できないの?」
とは言わない。
「あなたは今日2度スタートをきることができたね」という。


「スタートをきった数だけかしこくなれる」 スタートした先が成功したか、失敗したか、うれしかったか、悲しかったか。 そんなことは関係はない。 スタートをきったことに価値があるんだ。

子どもたち。大人になるにつれて、様々な出来事が起きるだろう。
悲しいこともあるだろう。理不尽なこともあるだろう。もやもやした気持ちになることもあるだろう。
でも大切なのはそんな状態でも「スタート」をきること。


ゴール地点なんかわからない。
そんな気持ちでスタートをきってもいい。
スタートをきればゴールが見えてくる。
自分の目指すゴールと違う方向に進んでいれば、また再スタートすればいい。
スタートをきっただけかしこくなれる。

違和感

「一番大切なものまで削ぎ落としてはいないか?」
最近、そんな違和感を抱えながら毎日を過ごしている。
教師にしかできないこと。それはすべてを受容することではない。
「あなたにはこれが必要。だからやりなさい」
と子どもたちに本当に大切なものを提示し、向き合わせることも大切。

「厳しさ」の中に「優しさ」が存在している。
二つの両輪があってこそ、子どもたちに届く。
最近感じる違和感。
自分の中の「優しさ」が「厳しさ」にくわれてはいないか?ということ。

あせっているのか?
急いでいるのか?

大切なのことは「きっとできるようになるよ。だからやり続けていこう」という言葉。
しかし、最近の自分はよちより歩きの子どもに「走れ」と言っている感じ。
それは単なる「厳しさ」。「優しさ」なんかじゃない。

どこかで歯止めをかけようとする。
しかし、「厳しさ」は「優しさ」に食いついて放さない。
「優しさ」を育んでいくのは長い時間がかかる。
でも、それを崩れるのはほんの一瞬なんだ。

「優しさ」に内包される「厳しさ」なのか。
「厳しさ」に内包される「優しさ」なのか。
そのどちらかで全く質は異なるものとなる。

一つ一つ丁寧に。
もう一度、「優しさ」が包み込む「厳しさ」を求めよう。
そんなことを考える。
週の終わり。良い一日にしよう。

読み聞かせから始める道徳

夜寝る前の出来事。
「一冊だけ絵本を読んであげるよ。なんでもいいからもっておいでね。」
息子がもってきたのは「おさるのジョージ
そして娘がもってきたのはなんと「道徳の教科書」
昨日娘は道徳の教科書を持ち帰ってきたのだ。

娘に聞いた。
「いいよ。この中のどのお話がいいの?」
「う〜ん。いっぱいあった迷っちゃうな〜。」
そういいながら選んだのが「黄色いベンチ」というお話。

雨上がりの公園で紙飛行機をとばしていた2人の男の子。
ついつい夢中になって、ベンチの上にのって紙飛行機をとばしてしまう。
ベンチはドロドロ。その後、そのベンチを使った小さい女の子のお尻がドロドロになってしまい、2人がハッとするというお話。

息子、娘は真剣に聞いている。読み進めていくうちに、つぶやき始める。
「あ〜いけないんだ。」
「ベンチの上にのっちゃいけないんだよね。」
「うん。ベンチはすわるもの。だよね。」
「くつをぬげば立ってもいいんじゃない?」
「う〜ん。でもくつをぬいでも上に立っちゃだめなんじゃない?」

2人の会話を聞いているとおもしろい。
授業で大人数を相手にすると、こういうつぶやきをついつい聞き逃してしまう。
新鮮な気持ちで2人のつぶやきを聞いていた。
そこで聞いてみた。
「2人はさ。ついルールを破っちゃったなぁって時はある?」

[ない!ぼくはいつも守ってるよ!」
息子は胸をはって堂々と答える。彼はまだ自分を客観視できていないようだ(笑)
「おいっ!」と心で突っ込みながら娘を見る。
すると
「私は、たまに破っちゃう時があるな。廊下とか走っちゃったりする時があるし…」

「へえ〜。そうなんだ。ついうっかりルールを破っちゃう時って誰にでもあるよね。お父さんもあるなぁ。この前なんてね…」
なんておしゃべりが続く。まったりとした楽しい時間だった。

「道徳」ってなんなのかな?
そんな風に考えさせられる出来事だった。
「道徳」を「授業」できっちりやろうとするから苦しくなるのかな。
でも、そんなに身構えることなくこうして「読み聞かせ」というスタートラインでも、会話をもとに思考は深まっていく。

「誰が悪い。」
「こうしなきゃいけない。」
ではない。大切なのは
「ぼくにもね。」「わたしもさぁ。」
と自分の日常につなげていくこと。

道徳の教科書「を」学ぶのではなく。
道徳の教科書「で」学ぶ。
読み聞かせというゆるいスタートラインでも全然かまわないのではないか?
今回道徳の教科書を使って子どもたちと対話できたことでそんなことをふと感じた。

「学ぶ」ことは「まねぶ」こと

「先生、まねぶしてきてもいいですか?」
授業中子どもたちは、この言葉を当たり前のように言うようになった。
4月から伝え続けてきたこと。
「学ぶ」ことは「まねぶ」こと。
すべてはまねをすることから始まる。

一般的に「まねをする」という行為を子どもたちは悪のように感じている。
「◯◯くんがぼくのをまねをした!」
「これはぼくの考え、まねをされたくないから見〜せない。」
というように。
「まねをする」ことも「まねをされること」も「悪いこと」と感じていることが多い。

「学ぶこと」は「まねぶこと」
まねをすることが悪いことと考えていた子も、話していくうちにこの感覚がストンと落ちる。
そして自然にまねをし合いながら学ぶようになる。

まねをする。これは人間の本能なのではないか?
そんな風に感じる出来事があった。先日の運動会のことだ。
私は紅組の応援席に座っていた。高学年の騎馬戦を見ていた子どもたち。数人の子どもたちが友達と帽子をとりあい、先ほど見た騎馬戦のまねをしている。

私はスッと立って、今度は白組の応援席へ歩いていった。すると白組でも同じ光景が。
数人の子どもたちが楽しそうにぼうしを取り合っている。
離れている席で起こっている全く同じ行為。
見たものをそのまままねる。これは人間の本能というものなのだろう。

また先日こんなこともあった。
妻と他愛のない話をしていた時のこと。
妻が言った。「私、字を書くのがとっても苦手。筆ペンとかで字を書くのはあまり好きじゃない。」と。
すると1年生の娘が「習字って何?」と聞いてきたので、そばにあったiPadで習字の動画を開いた。

画面の中では、美しい字が次々と仕上がっていく。
「すご〜い。きれいな字だね。」
娘と妻は感心しながら見ている。
すると妻はがさごそと押し入れをさぐり、筆ペンをもってくる。
「見ていたらなんか書きたくなってきた」と。

書き始めた妻。するとそこには今までより数段うまい字が。
「あれっ?なんかいつもよりうまくなってる。」
「ちょっと動画を見ただけなのに」
人は本能でまねをする。「よいものにふれる」ということはそれだけで意味がある。

「まねをする」ということが人間の本能としてあるならば、教師にとって教育活動は非常にシンプルになる。 教師の役割は「いかに良いものを示し、そこから学(まね)ばせていくか」ということとのみに力を注げばよいからだ。

しかしこれはシンプルだが大きな葛藤も生み出す。
教師自身の「いかにあるか」という部分までもが子どもたちを育てる上で大きなファクターとなってしまうからだ。
どんな方法を試してもうまくいかない教師がいる一方で、どんな方法でも子どもをまとめあげられる教師がいるのはそういうことだろう。

乱れている学級の子どもたちは、いうことを聞いていないのではないのかもしれない。 もしかしたら、彼らは忠実に教師の心の在り方を「まね」しているのかもしれない。 子どもたちは教師の姿を映す鏡。苦しくても、そう思える教師にこそ伸びしろは生まれるのかもしれない。

子どもたちの前に立つことで、今日自分は子どもたちに何を与えることができるのか?
さて一日のスタート。今日もいい一日にしていこう。

「選択」の中に生まれる成長

自分の意志で「選択」すること。これが成長するためには必要不可欠である。
何も考えず、のんべんだらりと生きていくか、自分の意志で一歩を踏み出していくか。
それによって広がる光景は変わっていく。

人は「選択」した数だけ成長していく。
最近そんなことを考えている。
自分がなぜ「書く」ということにこだわるのか?それは「書く」という行為はまさに「選択」の連続だから。

無限に広がる思考。「書き表す」ということはそれを一つにしぼるということだ。
どの言葉でこれを表現するのか?書き表す中で子どもたちは常に「選択」と向き合っていく。
うまく書けた、うまく書けなかったなどはさして問題ではないのだ。
大切なのは自分が言葉を「選択」したという事実。

授業。いつも子どもたちの作品を紹介してから授業を始めている。子どもたちは友達の書いた作品を見ることが大好きだ。自然に視線が集まり、真剣な表情で友達の作品を眺める。
友達がどんな言葉を選択し、自分の考えとしてまとめたのか?
自分の選択と友達の選択がどう違うのか?
じっと眺める。

人のした選択を眺め、その上でまた自分の選択をしていく。その積み重ねが子どもたちを成長させていく。数ある道の中から、何か一つを選択する。この数が多ければ多いほど、人は成長する。


「選択できる」ということは「自分が主人公になる」ということに似ている。
誰かに抑制されて、身動きもできずじっとしている状態を主人公とは言わない。
自分が学びの主人公になれる時間を増やしていく。それが今自分がしていること。

「選択しないという選択」
こういう言葉もあるだろう。
確かにそうだ。「選択しない」ということを「選択」したと考えることも可能だ。
人生には、自分で道を選択できない時もある。

大切なのは、どんな状況でもそれが自分の「選択」した道なんだ。と思えること。
どんなに思い描いていたものと違っていても、どんなに理不尽な状況でも、今それが目の前にあるのは自分が「選択」したということを認めること。

そして、その状況の中で学び続けていくことも、その状況から抜け出し、新たな世界を切り開くことも「選択できる」と理解すること。 成長に大切なのは「選択」。 どの状況であっても、自分が「選択した」と思える限り人は成長していく。

今日も自分は数多くの「選択」をするだろう。 子どもたちへの言葉かけ。 授業の進め方。 行う仕事の優先順位…。 今日も一日「選択」の中で成長していこうと思う。